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(3)

 

私に,父親はいない。いや,記憶に残っていないというべきなのだろう。母は13年前,天に召されていった。

 

お袋が亡くなった年の10月,何もかも清算するつもりで国立金沢病院,現在の金沢医療センターを辞し,一般病床672床を有する,いわゆる総合病院のK病院に就職した。

その翌年の1月,裕子はナースとしてK病院に中途採用になり,立ち上げられたばかりで手薄だった救急部で働くようになった。それで当直のときや急患を診るさいに,往々にして一緒に仕事をする機会があったのだ。

言うまでもなく,私のほうが病院職員として先輩であるとは思ってもみなかったし,ましてや彼女にいかなる事情があるのか知るよしもなかった。





私が内科系当直を,裕子が凖夜勤務をしていた,ある夜のこと。

当時から時間外受診の患者が少ない日は滅多になかった。その日も廊下のあちらこちらに患者が待っていた。

午後5時過ぎより始まった診療がようやく一段落したのは,午後9時をとっくに回って10時ちかくであったろうか。溜め息をつき,診察デスクに目を落としてボンヤリ座っているときだった。

「おつかれさまでした。やっと途切れましたね」と声をかけられる。振り向いた先には,やさしげな準夜ナースの笑顔があった。「日中は,心カテされていたんですか?」

「午後から3例。それは,大したことなかったんだけど・・・おとついの夜,AMI,心筋梗塞の緊急カテがあってね。それに,きのうはきのうで患者が急変して病棟に呼ばれたから,どうも疲れが抜けきっていないのかなぁ」

ちらっと斜め前に立っていたナースを見上げる。はじめて意識して会話している相手のことが気になった。屈託のないスマイルに熱意のようなものが宿っている。 「君は,まだまだ力が余っていそうだね・・・」

「そうですか? きょうは,特別ですから・・・」

「とくべつ?」

「あの・・・わたし,ここに勤める以前は,国立病院で働いていたんです。だから,先生のこと,知っているんです」

 彼女がいきなりK病院にくる前のことを明かしたのは意外だった。けれど,オドロキよりも親近感をおぼえ,同窓生に出会ったような心持ちになって返答した。

「ホント! どこにいたの?」

「東2です」

「ひがし2?・・・外科病棟かな」

「はい」

「じゃ,会うこともないなぁ」

「そうですけど・・・先生の外来に通っていた患者さんが,食道癌のオペのために外科入院になったことがあるんです。その人の容態をみに,先生はわざわざ東2まで,ほとんど毎日のようにいらっしゃってました」

「どんな人?」

「がっしりとした,60歳くらいの男性で・・・たしか,山崎さんという名前だったとおもいます」

「ぅん,覚えているよ・・・あの人の術後は痛ましいかぎりだった。手術がうまくいってなんとか乗り切れるとおもったんだけど・・・3か月後に胸水がたまってね,癌性胸膜炎。 それで内科に入院して,ドレナージとか胸膜癒着術とか,しかるべき処置をして頑張ったけど・・・けっきょくは,オペして一年と経たないうちに亡くなってしまったんだ。告知してなくて,本人は最期まで納得がいかない様子だったから,よけい可哀そうでやりきれなかった。患者とスタッフとのあいだもギクシャクして,とくに世話している奥さんがいちばん大変だったかな」

「どうしようもなかったんですね・・・そういえば,あのときの山崎さん,先生が病室に来られるのを,とても心待ちにしていました」

「そうだったな,よく知ってるね」

「わたし,担当でしたから・・・ナースになって二年目,先生のこともすごく印象に残っているんです」

「・・・あんまり良くないイメージだったりして」

「いいえ,感心したんです。よその科に入院になっても,ちゃんと患者さんを回診されるんだって」

「それは,まったくの勘違いだよ。外来患者が他科入院になったとしても,よっぽどの理由がないかぎり,回診なんてしないさ」

「じゃ,山崎さんと約束でもされていたんでしょうか?」

「いいや,なんにもないよ」

 信頼され過ぎて,たんに務めを果たしたまでのこと・・・しかし,そこらへんに関しては語りたくない。

しばらく間があいた。なんとなく物足りない感じがして,つい挨拶代わりのような口癖が出てしまう。

「ちなみに,君はいくつ?」

「わたしですか?・・・先生は,かならず歳のハナシをするって,院内ではかなりの評判になっていますよ。やっぱり,ホントなんですね」

「気になることを,ただ正直に訊いているだけさ・・・それに,すぐ忘れてしまうから,ぜんぜん心配いらないよ」

「それなら聞かなくても,いいんじゃないですか」

「ほう,君はあたまいいね。でも,なんかヘンだな・・・」

 上手に応答できないでいると,彼女は笑みを拵えながら,さらりと告げる。

「わたし,28です」

こんなふうに裕子と知り合い,それからは顔を合わせると時間をみつけては言葉を交わすようになった。また緊急心カテやオンコールで呼ばれて彼女に出会ったときには,心がしぜんと浮き立つのをおぼえた。素直で機転のきく裕子が気に入っていたのである。

 

裕子と顔見知りになった年の12月中旬・・・すなわち就職から一年あまりが過ぎて病院にも周囲の環境にも十分に慣れたころ,職員有志の企画によってクリスマス会が大々的に催された。

開くのは三年ぶりで,各部署からいろんな人が集まりますよ・・・そう放射線科ドクターに誘われた当初は,資金を援助するつもりでチケットを購入したのだった。

ところが,ICUに重症心不全の入院があって指示を出しにいくと・・・「クリスマス会に参加されるんですよね」「やだぁ違うんですか?」「行かれるって聞きましたよ」「わたしたちチケット買ったんです」「先生も行きましょうよ」

・・・「わかった,そうしようか」ってな調子で,あっさりナースたちに押し切られてしまった。

まあ,いいのだけれど。その日はこれといって用事もないし,行き違いがあったにしても期待を裏切るのは好ましいことではなかろう。

 

会場は,それまで看板をみても通りすぎていたビルの4階。あわてて始まる間際にエレベーターからその階へ降り立つと・・・フロアー全体がレストランになっているらしい。もちろん店内は貸し切り。

狭すぎる入口で受付けを済ませると,好きなテーブルに座ってください,って促される。そんなこと言われてもねぇ・・・決めかねて出入り口付近で会場を見回していたら,たまたま視界に入った,エンジ色の服に身をつつんだ女性のすがた。

裕子のような,そうでないような・・・瞳をじっと凝らし,まちがいないと確信した瞬間,向きを変えた彼女の同僚と目が合ってしまった。そして,しきりに手招きするのだ,こっちこっち!って。

渡りに舟,乗ってみるのもわるくないかも・・・そのまま釣られて,私は裕子とその仲間たちに囲まれて座ることになったのである。

 

場の雰囲気が盛り上がり,ほろ酔い気分になってくると,同僚ナースは黙ってはいられない。たまらず身を乗りだして私の右隣にいた裕子越しに喋りかけてくる。

「ヒロコは,先生の熱烈なファンなんですよ」

「そう・・・うれしいね」

「だったら,どこかに誘ってやってくださいよ」

「そのうち・・・暇ができたら」

「もう,じれったいなぁ」

あたり障りのない受け答えをしていたこのオレに,

「先生は,結婚しないんですか?」

と,単刀直入に疑問をぶつけてきたのは当の本人だった。

「結婚ね・・・」

 そうつぶやいて私はテーブルに目線を落とした。よくないと思いつつ,見えないバリアーを張り巡らして独りの領域に一瞬閉じこもる・・・きっと己れを偽れなくなるだろうに。

 私はしばしば相手の迷惑も顧みず恋人のことを訊ねたりしていたが,そのさい逆に問い返されることも珍しくなかった。結婚問題でも同様。

ふだんなら『巡り会えなくて』とか『できればしたいけど』とか,本心から程遠い社交辞令を並べていたのに,どういうわけかこの時ばかりはマトモな返答をしたのだ。顔を近づけ,彼女には聞こえても周りの騒がしさに紛れるくらいの声で。

「おれは一生涯,結婚することはないよ

 裕子も耳打ちしてくる。

「なぜ,そう言い切れるんですか?・・・先生は,女性を好きにはならないんですか?」

「ならない」

「どうして?」

いささか後悔しはじめる・・・特殊な心情を説き明かすなんて不可能にちかいこと,なんで本音を漏らしてしまったのだろう,と。

かりに本気でありのままを語ったとしても,理解しがたいことに相手は了解しようとしてくれないから,かえって関係が気まずくなる・・・要するに,適当に答えておけば良かったのだ。

「どうしてですか? せんせい」

『どうしてもへったくれもないだろ。心の奥底では好きにならないんだよ!』

その文句をぐいっと水割りといっしょに呑み込んだ。今さら,どうにもならんな・・・彼女はあくまで押してくる。オレも真実を覆したりしたくない。さりとて自己をさらけ出したくはなかった。

「・・・性格かな」

「ぜったい好きにならないと,誓えますか?」

「誓えるさ」

おりしも奥のほうのスペースでは,楽器の得意なドクター達による日頃は見られない珍演奏がはじまった。だれもが驚きの表情で聴き入っていたが,私は苛立ちをおぼえてそれどころではなかった。

なんでまた真剣に応じてしまったのか!・・・どこまでも悔いていた。しかしながら,のちになってみなければ掴み取れないこともある。

 

裕子の真っ直ぐな想いがこころの奥深くにまで届いていた現実を,私はどうしても受け容れることができなかった。そのために精神が揺れ動いたという事実を,いくら突き詰めても信じることができず,また私はかたくなに信じようとはしなかった。

 

 一次会のあと,外科連中の行きつけのスナックバーで二次会が開かれた。

誘われてしんがりに入り口をくぐると,すでに店の中は溢れんばかりの人でいっぱい・・・考えてみれば,むりに加わる必要もない。だれにも告げずに踵を返した。

階段を降りて通りに出たところで,後方に走って近づいてくる足音・・・まさかオレを追ってくる?

「せんせい! どこ行くんですかぁ~」

裕子だった。

「さあ・・・どこかで飲みなおすさ」

忘年会の類いであっても最後は一人になることが多い。十分に酔っていたから,なおのこと自分を偽れない。さっきのことで鬱憤のようなものも溜まっていた・・・なにがなんでも流れに逆らって,無性に独りで飲みたい気分。当然ながら,彼女を誘おうなんて気はさらさらなかった。

そんな私の暗いイメージを感じ取ってか,機嫌を損ねないように裕子は恐る恐るたずねる。

「わたしも,つきあっていいですか?」

 断れない性格は,ときに幸いを呼びこむ。ちいさく頭をたてに振って,ようやく胸の奥のほうに燻っていた欲求に気づいたのだ・・・ふたりで酒をゆっくり酌み交わすのもいいではないか。

「ホントですか?」と,笑みを浮かべて彼女は訊きかえした。

「よし,飲みにいこうか!」

 

 それから以前よく出入りしていた片町のスナックに,一年数か月ぶりだろうか,K病院につとめて以来はじめて顔を出した。

「あら,めずらしい・・・転勤して,心変わりでもしたのかとおもったわ」

私より10歳若いママが,ドアを開けて入ったとたん,ちょっぴり嫌味をこめて言い放った。ならば,こちらも言い返さねばなるまい。

「アサちゃんも・・・ちょっと老けたな」

「ナニ言ってんの,アオちゃんが来ないせいでしょ! 昔みたいに飲みにきてくれたら,もっとしっかり若さと美貌を保てるはずよ」

座ろうとして「こっちの席がいいわ」と誘導されたのは,カウンターの半円状に飛びだした部分。内側には人ひとり入れるだけのスペースがあって,ママはそこからオシボリを出しつつ,見たことのない客を品定めするように正面から見据えて・・・「彼女は,なに飲む?」

「先生は?」って,受けながす裕子。

「ブランデーの水割り」 そう私は答えた。

ただよう空気は,かつての似かよった場面を呼び起こす・・・ママが朝ちゃんと呼ばれていた時分,嵩子と前の店をおとずれた折りもこんなだった。

「じゃ,わたしも・・・」 声のトーンに呼び覚まされるように,嵩子のすがたが裕子にダブってみえた。

 

・・・時間はどのように潰れていったのだろうか? 曖昧模糊としているのだが,途中でいつしか私の女性関係が話題にのぼったこと,それと午前4時ごろに店を出たことは,ふしぎと定かに記憶している。

 

裕子の素朴な質問がきっかけだった。

「先生には,彼女はいないんですか?」

 酔いが回っていて隠すつもりも防御する心構えもなかった。

「前はいたけど・・・もう赤の他人どうしになっちまって,今はいないよ」

これまで胸におさめていたことを打ち明けると,すかさずママが反応する。

「まあ,青ちゃん,とうとう別れてしまったの?」

「あぁ・・・」

「どっちのほうと?」

ママには相変わらず遠慮というものがない。その問答を彼女は訝しげに聞いていた。

「どちらとも」

「二人とも?」と,もう一度ママ。

「おう!」

ふかく詮索するなよ・・・すぐさま,とげとげしく投げ返してやった。すると裕子がたまらず口を開いたのだ。

「ふたりともって,どういう意味ですか?」

「じつは青ちゃんはね・・・二人の女と同時に付きあっていたってこと。ほかにも知りたいことがあるなら,なんでもわたしに訊きなさい」

 したり顔のママ。客の秘密を簡単にばらすとは・・・若干,許せない気持ちにもなったが,これほどズバリと的を射た言い回しはオレにはできなかったことだろう。

「先生は,そのような人ではありません! きっと,なにか事情があってのことだとおもいます」

 味方してくれるのは義理でもありがたい。とはいっても,嬉しいといった感情は湧いてこなかった。真相を知ったなら彼女だって・・・まったくもってオレには弁解の余地などないのだ。

「でもね,人は見かけによらないって言うじゃない。忠告しておくわ・・・あんまり青ちゃんを信じちゃダメよ」

 そのとおりかも・・・オレのことは信じないほうがいい,と彼女に対して胸の内でつぶやく。

なおも裕子は聞きたくてたまらないふうであったが,ママはお客さんに呼ばれてテーブル席に移っていった。

「結婚しようって思ったことは?」

 あらためて異なる角度から問いただされる。

「・・・一度だけ」

「なぜ,しなかったんですか?」

「おれが・・・」と答えかけて,憤りとも悔しさともつかない自己嫌悪の絡みついた情念に遮られる。

カウンター越しのグラス棚には二人がうっすらと映っていた。無くすために散々苦しんできたオレと,見いだそうと懸命になっている裕子。

どうすることもできないではないか。せめて・・・己れの醜さから逃れようとはすまい。

「かけがえのない・・・女心をズタズタにしてしまったのさ」

堰を切ったように,過ぎし日の修羅場が次々に想い起こされる・・・いかんともしがたい記憶の渦。そこから抜け出すことができず,裕子を置き去りにしてしまった。

「わたしなら・・・」

彼女は口をつぐんだ。顔色をうかがい,裕子はそれ以上ふかく立ち入ろうとはしなかった。

 

 店からの帰り道,夏の季節であれば空が白んでいる時刻,犀川の堤防をぶらぶらと肩をならべて歩いた。

なんと夜明け前の風は冷たくて身にしみるのか!

しぜんと寄り添い,足並みがそろってしまうのも無理からぬこと。くわえて如何に鈍感であろうと,あんな問いかけを浴びせかけられて一夜を飲み明かしたあとでは,身体が触れあうたびに彼女の想いが伝わってくるというもの。それとシンクロするように,裕子のことが好きになっていく自分を感じないではいられない。

おまけに芽生えてくる欲望をじわじわと意識しはじめる・・・それごと彼女への情動を手遅れになるまえに打ち砕いてしまおうと,唐突に立ち止まり,私はキッパリと宣告した。

「おれと付きあっても,結婚できる見込みは万に一つもないから,だれか違う男性を見つけたほうがいい」

 ところが裕子は,あたかも予見していたかのごとく,毅然として言葉をかえすのだ。

「それは,先生・・・わたしが決めることです! こんや,あれこれハナシを聞いて,はっきり決心がつきました。先生さえ迷惑でなければ・・・わたしは先生のそばにいて,いっしょに暮らしていきます」

「バ・・・バカなこと言うんじゃないよ。結婚できないのに,いっしょに暮らすなんて,どう考えてもおかしいだろ」

「そうでしょうか?」

「常識から外れすぎだよ」

「わたし,結婚できなくてもいいんです。先生をいつまでも,どこまでも,ずうっとずっと見ていきたい」

 愕然としてしまった。ああ,なんということだろ・・・これでは,嵩子のときと,ほとんど変わりないではないか!

あのときと同じ過ちを犯すことは二度と許されないし,今の私には罪を重ねるつもりなんぞ毛頭ありはしないのだ。

「言いかたが,マズかったかもしれない。過去にいろいろあって,おれはもう愛を捨てちまった人間だ。だれも愛せないし,だれも愛さない・・・だから,こんな碌でもない男と一緒にいたって,面白くもなんともないだろ」

「ちっともかまいません。承知のうえで望んでいることです,気にしないでください。わたしは・・・自分を偽らないで,正直に生きていきたいんです。これから先,けっして後悔しないために」

「もし,ダメだと言ったら?」

 裕子の揺るぎない視線が私の目を捉える。しずかに真意を探ろうとする瞳だった。そして,自らに諭すように彼女はつぶやいた。

「ダメだと言われたら,いっしょに生活することはあきらめます。でも,たとえ断られても・・・わたしの気持ちは,いつまでたっても変わらないとおもいます。だって先生は,だれも愛さないはずですから」

 うむ・・・なるほど。オレの弱点は,完全に見抜かれているらしい。

 彼女の目を見つめかえす。潤いのある瞳は窺い知ることのできない純真さを湛え,ほとばしる心の色は比べるものがないくらいに澄んでいた。

 

本当は,愛を捨てても愛はある。愛なき愛は無限だと,私は信じている。

 

『気がかりなのは,彼女とおれが,はたして耐えられるかどうか・・・』

 しかし・・・それは考えても詮なきこと,共に暮らしてみなければ実際のところはわからない。

そうやって自問自答するうちに,口許がゆるんでいく・・・露わになっていく我がココロが滑稽でならなかったのだ。

いったい何を躊躇しているのだろう,どれだけ理屈を並べたところで逆らえるわけがないのに・・・もはや魂の重石はオレを引きずって,坂を転げ落ちるように裕子に向かっているというのに。

「どうかしたんですか?」

「ん,なんでもない」

それでも平静を装った・・・かろうじて「下に,行ってみようか」と誘うことでバランスをとって。

されど・・・悪アガキに過ぎなかった。

河川敷の遊歩道へ降りていくと,崩れた体勢を立て直すどころか,なおさら流れに抗えなくなってしまったのだ。

爽やかで力強い川瀬の音は,すべての蟠りを解き放っていった。無言のまま彼女を抱き寄せる。

「あとで悔やんでも,責任はとりかねるけど・・・いいのか?」

・・・分かってはいても己が本性を恨みたくなった。 『なにゆえに,かくも他力的なのか』

「ゼッタイ,あり得ないことだわ・・・」

「どうして言い切れる? この世の中,絶対なんか無いだろ」

そのうえ,根っからのつむじ曲がりときては,どうにも救いようがない。

「ううん,悔やむなんてこと,ないもん!」 彼女は小声で,ひとり言のように零した。

「いいんだよ,キライになったときは,なったときで・・・」

「イヤ! ありもしないこと,言わないで!」

 気づくのが遅かった。目にナミダを溜めているヒロコ。

「ゴメン,ちょっと意地悪してみたくなった」

「バカ!」

 そうだな・・・死ななきゃ治らないのなら,生きているかぎり貫くしかないじゃないか。

「その大バカと,マジに付きあってみるか?」

 エッとした顔を見せたかとおもうと,大粒の雫がパチパチするマナコからこぼれ落ちる。

「うん!」

泣いているのか笑っているのか,どちらともつかない微妙な表情がたまらなく気に入った。

『ままよ・・・』

さきに唇を奪ったのはオレだが,幾度となく唇を重ね合わせたのは裕子のほうだった。


 ひとりでむなしく日々を送っていてもつまらない・・・その日のうちに,半同棲生活をはじめる。

裕子はアパートを借りていたが,しだいに私の賃貸マンションで過ごす時間のほうが,時期によっては圧倒的に多くなっていった。そして私のために,職員に知られないよう振る舞うことを忘れなかった。

就職して3年目の夏,分譲マンションを彼女が購入してからも,さして私たち二人の暮らしぶりは変わっていない,よくもわるくも現在に至るまで。




 発作のあった翌週,月曜日。

早朝に目が覚めてしまい,そうでなくても気分がスッキリしないのに,考えが行き詰まってよりいっそうストレスが溜まった。肝腎かなめの部分が欠けていて全体像が見えてこない苛立たしさ・・・いつになく私は早めに出勤したのだった。

朝の病棟は勤務交代の時間帯で,やや張りつめた気配がただよう。ナースステーションでいくつか指示を出したが,べつだん私の動きに注意をはらう者などいなかった。

午前中は,退職する内科ドクターの代診を引き受けていた。不安をかかえての初診外来・・・医師が診察中に発作を起こすようでは,それこそ様にならない。かといって,代わりをしてくれる奇特な医師もいない,腹をくくって外来に向かわねばならなかった。

案ずるより産むが易し・・・じっさい行なってみると,患者は少なくて診療はスムーズ,懸念したことは何ひとつ起こらなかったのだ。しょうじき肩の荷がおりて一安心する。

ただ診察室を出ようとしたとき,担当ナースに呼び止められた。

「せんせい! だいじょうぶですか? 金曜日の夜,救急車で運ばれたそうじゃないですか! きょうは,外来休まれるんじゃないかって・・・みんなで,心配してたんですよ」

「そりゃあ,予想を裏切ってしまって,わるかったな。見てのとおり,ピンピンしているよ」

 疾病のことを勘ぐられたくなかった。さいわい,さっきまでの外来業務も,薬が効いているせいか通常にできたのである・・・案外,このまま隠しおおせたりして?

 

病院の売店で,おにぎりと牛乳パックを一個ずつ買いもとめ,研究室にもどって三日間をかえりみる。

週末はなるべく負荷になるようなことを避けてきた。といっても冠動脈の病変が真に不安定であるなら,安静なんかで発作が抑えられるはずもない。

さほど重症ではないということか?・・・サブ術者なら,カテーテル治療だって,どうってことなくやれそうな気さえしてくる。

・・・それにしても,裕子には話しておくべきだった。

『まずったな・・・』

不名誉なドクター情報はすでに院内中に拡がっているようだ。一般病棟で働いている彼女の耳にだって届かないわけがない。

『なにを今ごろになって・・・バレないほうがよっぽどおかしなこと,あたりまえじゃないか』と,愚痴る以外に気分をなだめようがなかった。

 

 午後は,心カテ。

藤沢はとっくに着替えを済ませ,私を待っていた。発作性心房細動のカテーテルアブレーションだという。

「先生・・・できますか?」 疑念を投げかけて,ためらいがちに後輩はつづけた。「いちおう元木先生には,いざという時は手伝ってくださいって頼んでありますから,無理されないほうがよいのでは・・・」

なら・・・のちほど電話を入れておかないと。元木先生とは私の上司,循環器内科の部長のこと。

場合によっては入院する事態も起こりうるのであったから,そもそも上司に連絡しなければいけなかったのだ。が,生半可に告げて迷惑をかけたくなかったし,引き受けた外来の代診のことも気にかかった・・・ともかく決着をつけられず,私は報告しなかったのである。

ところで,人として申し分なく先輩を気遣ってくれた藤沢だったが,医師として何よりも恐れていたのは,心カテ診療に支障をきたすことであったにちがいない。

「平気さ・・・たぶん」

と答えて,自信の無さを見透かされているような気がしてくる。とっさに釈明しようとして口から出てきた言いぶん・・・「だいたいアシストが必要なのは最初の準備のとこだけで,大事なところはぜんぶ藤沢ひとりでやっているようなもんだろ」

ハッとする・・・よもや自らのセリフで傷つくとは思わなかった。

それはまさしく,私の代役がだれにでも務まるということにほかならないではないか。 つい弱音を吐きたくなる・・・どうせなら,いまからでも元木先生に代わってもらおうか? 

そんなパートナーの小さな葛藤のことなんぞ,後輩は露しらず,いいかげん見切りをつけたのだろう,いくぶん厳しさを和らげてつけ加えた。

「土日はどうでした?」

「発作らしい発作は一度もなかったから,処方が効いてるみたいだ」

「よかったですね」

「まだ分からんけどな・・・」

ロングシースの挿入と一連のカテーテル挿入は30分前後でトラブルなく終了し,それで私の出番はおしまい。あとは頼りになる後輩に全権をゆだね,丸椅子に腰掛けてカテ室の壁に寄りかかった。

 

目下のところ,藤沢は不整脈とりわけ心房細動のカテーテルアブレーションに全精力を注いでいる。

 ・・・心臓電気生理の検査と治療は,一口では言い表せないくらいずいぶんと変わってしまった。まさに目覚ましく進歩したと言うべきなのだろう。

最近ではバーチャルリアリティが活用され,心房細動のアブレーション治療も難しいものではなくなった感がある。もっとも医師に求められる技術も高度になり,すでに私は手を引いている。新しい医療は気概のあるドクターに託してもっぱらアシスタント役に徹するばかりだ。

治療の進捗状況を見守りながら,流れゆく時間のなかに身をおいていると,是認しているのに斯く思えてくる・・・

・・・進歩は,けっして進化ではない。人類はどこまで進歩することで精神的退化を続けていくのだろうか。

エイエンに?・・・そうではないだろ。それ以前に横たわっている,憂慮にたえない・・・滅亡への道。

どうころんでも発展にともなう環境破壊はますます深刻になって生存すら危うくなっていくに相違ないのだ。そして,いかなる悲劇が待ち受けていようとも歩んでいかねばならない生き物たち。

愚かしいにしても・・・定めなのだ,それが。

などと,下らない憶測をするうちにアブレーションは完了,私のつれづれも日勤の時間帯で終わりを告げた。

 

仕事をやり終えてマンションに帰ってくると,案の定,裕子が怪訝そうな顔で私をむかえる。

いきなり問い詰められた。

「きょう,病院で話題になってたわ,あなたが救急車で搬送されたって。いったいどういうこと? なんで,わたしが知らないの? ねぇ,なんでなの!」

「ごめん。 ちょっと言いづらくて・・・」

 怒気のこもった眼差しと口調に気圧されて,そう返事するのがやっと。

「どうして言いづらいの? わたしが,どんなにあなたのことをオモってるのか,知ってるでしょ! みんなの会話を聞いてて,どれほど哀しかったか,わかる?」

「・・・おまえに要らぬ心配をかけたくなかったんだ。でも,大したことなくても,やっぱりきちんと話さないといけなかった・・・ホントにゴメンな,ゆるしてくれ」

まともな答えになっていなくても,反省の気持ちは伝えたかった。だけど急に裕子は押し黙ってしまい,そのあと口を開こうとはしなかった。

『マコト』のカケラなんかじゃ,おまえの心は開けられないってことか。なにもかも曝け出さなきゃ,喋らないつもりだってことなのか。それとも,いっそ反抗してくれたら憤怒をぶちまけてやったのに・・・大バカヤローとでも叫びたいっていうことなのか。

オレにしたって,口を閉ざし,ただひたすら待つしかなかった。そのくせ,この勝負,惚れた側が負けなんだろうと横柄に構えていたんだ。

はたして気まずい空気を換えたのは・・・彼女の漏らした,小さな溜め息であった。

しばらくして,いつものおだやかな声が聞こえてくる。

「心臓の発作らしいってウワサだったけど,ホントに大したことないの?」

「狭心症だとおもうけど,薬で治まってるから,だいじょうぶさ」

 金曜日の出来事とその後の経過を,かいつまんで説明した。

「それで心カテはどうするの?」

「いつかは受けないといけないだろうな・・・」

「いつ頃?」

「近いうち・・・」

 

 

 

現代の高齢社会では,それらを抜きにしては何も語れないほど,認知症と寝たきりが大きな社会問題となっている。

自身で生活ができなくなった年寄りを診るたびに,行くすえの世の中が見えにくくなり,いいかげん何とかならないものかと叫びたくなる。認知症と寝たきりは明らかに病的なケースも少なくないが,見方をかえれば人間の老いていく姿ともいえるからだ。であるなら,社会自体が介護していかねばならないのかもしれない。

その人たちを在宅中心の医療介護で支えていくのだという。

わが国では近ごろ,家族の絆は相当に希薄になっている。それを見直すきっかけにはなるとしても,現状を軽んじ医療政策を強引に推し進めていけば,やがて家庭は疲弊あるいは崩壊して地域社会そのものの活力が奪われかねないのではあるまいか。さらに危惧されること・・・想定されている枠組みからハミ出てしまった人々は如何ように扱われていくのか。

いずれにせよ,痛みを伴っても抜本的な対策を講じないかぎり,未来は見えてこないように思われる。

 

わたしは,自立して生活ができなくなる前に,生きることをやめたい。

そのようなことをいうと,どういう了見なんだと多くの人の反感を買ってしまうことだろう。また,それだけはやってはいけないんだと延々と説教されることであろう。

だとしても,一歩たりとも引き下がれない,こればっかりは・・・真剣にそう思っている。

とはいえ53歳,来月で54歳は,幕を下ろすには早すぎやしないか・・・つまり,いくつなら迷いを断ち切れるのだろうか?

 

結局のところ,年齢ではないのだ。 これで良し,とできるか否か。

 

 あの発作が起きた当日には,いまだ人生の今後にまで考えが深く及んでいかなかった。

しかしながら,翌日以降,それまでもずっと思案してきた自己の終焉について,少しずつ直面する現実のなかで熟慮するようになったのである。

 

 

 

 火曜日の午前中は,超音波などの検査担当の日。

予約検査が終わってから,心エコーを技師に頼んでやってもらった。左心室には心筋梗塞を疑うような壁運動異常は認められなかったので,とりあえずほっとする。

午後には再診外来を行なったが,一日を通じてこれといった胸の症状はなかった。

 

水曜日の初診外来・・・さしたる変化はみられない。

ところが午後,心カテを行なっている最中に,ごく軽い違和感を前胸部におぼえた。患者を治している場合じゃないだろ・・・検査していても集中できずに苛ついた。

 

木曜日,午前の再診外来のときにも終了間際になり,多少の不快感が前日と同じ部位にあった。症状はものの1分も持続せずに消えてしまい,携帯中のニトログリセリンを舌下するほどのことでもない。

昼食をすませてから書類をいくらかでも仕上げようと外来へ向かった。そうしたら1階ホールのところで腰の曲がったひとりの老婆に出会った。目を奪われ,おもわず立ち止まる・・・さもみすぼらしい格好で,折れてしまいそうな細長い竹棒を杖代わりにし,一歩ずつ必死に歩いているそのスガタが妙にこころに絡みついて離れないのだ。

どのような目にあおうとも最期まで生き切ろうとする逞しさ,それは美しいとさえおもえる・・・これが,本来あるべき生き様ということか!

あやうく目が潤みそうになった。すると,老婆がこちらを見やってポカンとしている。いかん・・・つくり笑いを浮かべて内科休憩室へといそいだ。

 

 金曜日・・・全日,心カテの検査と治療の日。

午前中に2例,午後に1例の予定が入っていたけれど,引き続きカテーテル治療をおこなう可能性があるのは,見たところ午前中の症例のみであった。

昼の休憩にはいる直前,意を決して藤沢に相談を持ちかけた。そして,私の心カテが午後の2例目に行なわれることがきまった。

そのさい,以下のことを要望する。

入院しないで病院業務を支障なくこなすため,左橈骨動脈穿刺にて実施すること。2方向同時撮影をおこない,造影剤は50mlを超えて使用しないこと。

もちろん藤沢にも異存はなかった。

 

 結果というものは蓋を開けてみないことには分からない。

たしかに推測どおりに動脈硬化性病変をみとめたのであるが,私にとってはおそろしく都合のいいものであったから,内心ひそかに悦ばずにはいられなかった。

冠動脈造影検査では,右冠動脈2番に造影遅延をともなう99%狭窄がみとめられたものの,その他には有意狭窄をみとめないという1枝病変。また,左前下行枝と左回旋枝から良好な側副血行路がみとめられ,右冠動脈4番はその吻合によって左冠動脈より逆行性に造影された。

使用した造影剤は合計48ml・・・不可欠な方向に限って撮影したので最低限に抑えることもできた。

検査が終わると,ただちに車いすで操作室へ・・・造影所見をじっくり確認する。

理由はさておき・・・現在の血管の状況では,狭心症の発作が起きることはあっても,心筋梗塞を引き起こす可能性はないも同然であった。

 

・・・わが道は,ふたたび立ちあらわれて懸念は消え去った。すなわち,道がとつぜん閉ざされる恐れは,無くなったに等しいのである。

歩まねばならぬ・・・すくなくとも諦めてはならない。

 

投薬のみで加療していく決意をかため,即座に私はその方針を表明した。しかるに・・・藤沢は,不満をあからさまにして猛然と抗議する。

「なぜ,すぐにPCIをしないのですか! トータルになる前にやるべきじゃないですか!」

 PCIとは冠動脈インターベンションいわゆるカテーテル治療のこと。トータルとは100%の意味で完全閉塞のこと。

今回のような99%の病変は,いずれ必ず進展して完全閉塞にいたる。それゆえ閉塞前に心カテ治療をおこなうのが至極当然のことであった。

一般的に閉塞してしまうと,その閉塞期間が長くなるにしたがい難易度が上がり,成功率は低くなると同時にリスクも大きくなる。

「トータルになっても,藤沢の腕なら,やれないことはないだろ」

 後輩のドクターとしてのプライドをくすぐり,その場を安易にしのごうとしたのが浅はかであった。

「そうかもしれませんが・・・とにかく,ぼくには納得できません!」と言い捨てるや,そそくさと藤沢はカテ室から出ていってしまった。

治療の大原則を根拠もなく曲げることを潔しとしないその態度は,いかにも頼もしくて医者の鑑とさえ言えるが,自身のことに関しては私も譲るわけにはいかない。

 

 ・・・心に立ちこめていたモヤモヤを,これほどキレイさっぱりと吹き払ってくれるとは!

それまで次なる行動を考えていても,まとまりがつかなくて埒が明かなかった。それが,道が見えたとたん,積極的な治療は受けないという選択に不思議なくらい迷いはなかった。

カテーテル治療は根治がのぞめる画期的な治療法ではあるが,価値を有するのは将来を生きるためだ。その将来が要らないとなれば,治療を受ける価値が消滅してしまうのは必然であった。

終焉のことを定めて実行するには,残された時間で十二分ではないか!

それにもまして和まされたこと・・・かぎりなくゼロに近くなった,突然死の可能性。

・・・これなら,最後の最後まで自己を貫けるはず。


 さて,どのように説得したものか・・・経過観察の結論に至ったことが腑におちない様子で,裕子は浮かぬ顔をしている。

私は医学的な観点から・・・冠動脈インターベンションを行なうには一定量の造影剤が必要であって,そうなれば腎障害が進行してしまう不都合は避けられないことを指摘し,そのうえで自らの意志・・・できうるなら生涯にわたって手術は受けたくないことを強調した。

「おれは・・・持って生まれたものが壊れたら,壊れたままにやっていきたいんだ」

「わかったわ。あなたは自分の思ったようにしか生きないから・・・」

いつだって裕子は,良識的な判断とか真っ当な意見とかを押しつけるような真似はしなかった。

 

 

 

 自死を決断しようと彷徨うとき,過去をどうしても遡らなければならない。

 

嵩子と真子。

・・・オレという不器用な人間に色こく関わったふたりの女性。

わたしは・・・彼女らを,取るに足らない独りよがりの精神的格闘に巻き込んで,あまりにも深く哀しく傷つけてしまったのであった。




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