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 バラ色の人生なんぞ未だかつて望んだこともないが・・・とはいえ34歳でむかえた新しい年は,いかんともしがたい恋心に彩られてあやしく光り輝いていたのだ。たとえ齎される陰翳の深みはソコしれず,その深淵に生命をおびやかす得体のしれない魔物がひそんでいようとも。

 

元旦,初日の出をおがむ。 その年・・・嵩子は28歳,真子は23歳。


 年末年始のあいだ,真子と私はふたりで生活するための準備にあれこれと追われていた。掃除をしながら部屋の模様替えをしたり,おそろいの食器や不足している日用雑貨を買いに出かけたり,クッションとか揃えたいグッズを見に販売店へ幾度も足を運んだり,等々。

ただ,そうした悦ばしい慌ただしさの只中にあっても,ちょっと息抜きをする合い間には必ずといっていいほど,昨秋の告白した夜に起きてしまったあの悲劇が脳裏をよぎった。

・・・この日々を嵩子はどのようにやり過ごしているのだろうか?

真子はといえば,信じているといわんばかりに何ひとつオンナのことを訊ねようとはしなかった。いちおう訊かれたさいの心構えはしていたものの,到底みずから打ち明ける気持ちにはなれなかった。どだい関係をきっぱり清算するのが当然であったから事実をありのままに告げることもできない。必然的に,とっくに別れてしまったかのように振舞うしかなかった。

 正月二日,午前9時半すぎ,病状のすぐれない入院患者を診察しに大学病院へおもむいた。ついでに,というよりそれも目的で・・・公衆電話から嵩子と挨拶を交わすつもりだったのに,かけてもかけても呼出音が鳴りつづけるばかりでつながらない。取るに足らないことにも心がざわめきはじめる。無理をおしてでも彼女のところに立ち寄らねばならなかった。

 アパートが近づくにつれて胸の内は一層ざわついてくる・・・その一方で,不吉な事態を予想することは現実になってしまいそうで憚られた。

しかし午前11時ごろ,玄関からリビングへ侵入したとたん,うずまく不安が一気に凝固して青ざめてしまった。足しげく通ったころからは想像もつかないアリサマが眼前に広がったのだ。

・・・洗ってない皿と小鉢がローテーブルにいくつも重ねられ,真ん中には食べさしのカップラーメン。 なかの麺はふやけてしまい,割り箸がさも意味ありげに突き刺さっていて,見覚えのあるマグカップを上からのぞけば,飲みのこしの濃いコーヒー。 いつ淹れられたものなのか,液面のキワの跡が内側に数条こびりついている。

・・・テーブルから目をそらすと,かなり長いあいだ後片付けをしていないのだろう,フローリングがほとんど見えないくらいビールの空き缶がすきまなく転がっていた。

嵩子は・・・ソファで布団にくるまり横たわっていて,どうも寝込んでいるらしい。

ラック上の卓上カレンダーには,クセのある文字で勤務予定が書きこまれ,一部分に訂正が施されていた。

『そういうことか』

きょうは深夜勤務明けなのだ。つまり,なんらかの事情で勤務交代があったってことだ。ならば声をかけずにこのまま帰ってしまおうか。正直いって抜かりなく言葉を交わす自信はなかった。

踵をかえすとそのままシノビ足で玄関ドアへ向かったのだった。

 

嵩子と私は・・・たがいに過敏に反応しあい,些細なことにも思いが通じ合わなくなっていた。

たとえば正月が明けて,あらためて彼女のところへ出向いたとき。

「おめでとう!」

と,話しかけても嵩子は口をきいてくれない。

「どうしたんだよ・・・」って問いかけても,あっちを向いたまま。

いささかむっときて,すぐにも帰りたい気分になる。さすがにそこはグッとこらえたが,相手がダンマリのままでは一向にラチがあかない。時間も気になりだし,だんだん腹が立ってくる。

『なんでなんだよ!』

当てつけのようにイスをかるく蹴とばす・・・すると,ようやく彼女が口をひらいた。

「二日の日,あなたが来たこと,知ってるわ」

『ん?』

あのとき・・・起きてるふうには見えなかったが。

「わたし,目が覚めたけど,カラダが重くてボーとしていて,起きよう起きようとおもっているうちに・・・あなたは帰ってしまった」

「・・・ぐっすり,眠ってるみたいだったから」

「わたしは,おめでとうって言いたかったわ」

「すまなかった。カレンダーで深夜明けだとわかったから,起こさないほうがいいと思ったんだ・・・」

 返答をまつが,ここで会話は途切れてしまう。終わったことと割りきる私には次のセリフが見つからない。あの告白したときのような無言の静寂がこころに重くのしかかった。イライラが募り,そのうちぶっきら棒に言い放たずにはいられない。

「こんやは,これで帰るから!」

 キッと睨みかえす嵩子・・・山ほど言いたいことがあるのにうまく口に出せないばかりか,ひとつとして満足に話し合えない状況に憤怒と苛立ちの色があらわれていた。

近づいてやさしく抱きしめる。案じたとおり彼女は応じてくれない。わかってはいても淋しくなり,それでもキスをしようとした。ところが,唇はかたく閉ざされ断固として私を拒んでいる。ラストぐらいは笑顔で,とおもう気持ちはすっかり萎んでしまった。

でも気にかかり,ちらっと垣間みた嵩子の表情は・・・なんと,あのアシュラだった。

アパートを出てからも後味の悪さはずっと尾を引いた。思ったより長く,そして胸の奥ふかくに。

家では真子が食事を作って私の帰りを待っていた。しぜんと笑顔がもどり,嫌なことも忘れて楽しいひとときを過ごす。されど・・・今を満喫している自分にふと気づくとき,さきほどの後味の悪さがたちどころによみがえり,いつのまにか嵩子の苦悶の形相が思い起こされた。そうして身も心も一瞬のうちに凍てついてしまうのだった。

どうしたの?・・・真子の問いかけで現実に引き戻される。いや,なんでもないさ・・・って作り笑いをうかべ,意識的に嵩子の幻影を叩き壊さねばならなかった。




これといった打開策も見出だせないまま,やがて桜の季節をむかえる。

見頃のピークを避けておとずれた兼六園・・・舞い落ちる花びらを味わいながら真子と腕をくんで歩くことは,満開よりも散りぎわの風情に心惹かれる私にとって最高の誕生日プレゼントとなった。

・・・散りゆくからといって軽んじたくない。散りゆくからこそ,オノレも人をも欺きたくはない。

そんな思いで首尾よく立ちまわれないものか真剣に悩んでいたものの,あちらを立てればこちらが立たず,しょせん泥沼を受け容れたくないがゆえのキレイごとであった。

4月から真子はパートとして,当時地域の顔となりつつあったタウン情報誌の出版社に勤めだした。暇を持て余していたのでハローワークで仕事を探してきたのである。大学病院の勤務がほどほどに終わることは皆無といってよかったし,嵩子のことを考えると真子が働いていたほうが好都合かもしれない,と邪まな思惑が後押しした。私はあえて反対しなかった。

 

5月のゴールデンウィーク,たしか祝日ハザマの平日。

朝の出がけに真子から,イベントの手伝いのために帰りが遅くなると告げられた。これは,まさしく絶好のチャンス到来ではないか! 嵩子のところでゆっくりして目下の流れを変えなくては・・・出勤してただちに公衆電話から彼女に一報を入れておいた。

その日はさっさと病院の雑務を切りあげ,夕刻から開始されるカンファレンスにも口実を拵えて出席しなかったような? とにかく,なにかをサボって暗くなるころには嵩子のアパートへ向かったのだった。

彼女はキッチンで夕食の支度をしていた。

「ちゃんと寝たのか?」

「だいじょうぶ,じゅうぶん眠ったわ」

 嵩子は,休みの日だった。前日は準夜勤務で,普段なら昼頃まで寝てしまいそうなものだが・・・彼女の顔色はあまりよくなかった。たぶん熟眠していないうえに掃除でもしていたのだろう。

 かるくシャワーを浴びてビールを飲みはじめる。今夜こそ何らかの決着をつけなければならない。すっきりとは解決できないにしても,せめて納得のできる方向性だけは・・・彼女と共有できる限られた時間のなかで,私はなんとか活路を見出だそうとしていた。

さて,どう切り出したものか?

待つあいだツマミの惣菜を口にしながら思案をめぐらす。けれども考えるほどに明確になるのは,どのように言い繕ったところで中味は変えようがないということ・・・戦略なんか何の役にも立たないのではないか。

要するに,当たって砕けるしかないのだ。

支度を終えて嵩子がリビングに移ってくるころには,多少なりとも開き直った気分になっていた。彼女がすわるのを見計らって口をひらく。

「まえにも話したとおり,おれは結婚しようと思っている・・・」

 なので別れてくれ・・・とまでは,やはり言えない。

「あなたは,だれも愛さないと言っていたけど・・・そのヒトを愛したの?」

 声は小さくても,しっかりとした口調であった。

 なるほど・・・真子への想い,それが愛でなくて何であろうか。でも,なぜか同時に,そうではないと感じるのだった。つねに心の奥底では愛と相違するものが流れていて単純に肯定することができなかった。

「おれは,だれも愛さない。けど,彼女と結婚したくなったんだ・・・彼女が好きだから」

「それは,愛してるってことではないの?」

「・・・」 じゃない!

「わたしには,あなたの言ってることがよくわからない。わたしはあなたを愛している・・・もうあなた以外,だれも愛することはできないし,愛するつもりもないわ」

「・・・」 それで?

「わたしはどうすればいいの?」

「おまえの,思うように生きればいいさ」

「わたしにはあなたしかいない。でも,あなたはちがう・・・あなたには,ほかに好きな女性がいて・・・ねぇ,どういうこと? そのヒトと結婚するって言ってるくせに,だれも愛さないって」

「そのままだよ・・・好きだけど,愛してはいない」

 愛しているけど愛してはいないと言いたかったが,よけい分かってもらえそうにないと思った。

「わたしのことはどうなの?」

「同じさ」

「同じって?」

「愛してはいないってこと・・・」 もちろんキライじゃないけど。

「それなら,なぜ,わたしと別れないの?」

「・・・」 理由なんて,そんなもの・・・

「どうして?」

 そんなもの・・・あってないようなもんだろ。

「おまえが,それでいいっていうのなら・・・別れるよ,すぐにでも」

抑えられない感情とともに言葉がほとばしる。「おれは・・・きょうで,最後にしたってかまやしないさ」

そう告げるや,いいしれぬ胸騒ぎがして彼女を見やり,愕然とする。すでに嵩子に異変が起きはじめていたのだ。

ダッチロールみたいにカラダをゆるやかに揺らしながら,最初のうちは両手を握りしめているだけだった。そのうち拳にありったけの力を入れて緩めようとはしない,しかも不自然なアリサマは際限なくつづき,みるみる血行障害をきたして手指は白色と青紫色のまだら模様に変色・・・気がつけば,眼がすわり全身硬直状態に陥っているではないか!

あわてて彼女を抱きよせ,拳を開こうとするが締めつけが半端なく指はびくともしない・・・なんという力? そのうち前回のような震え,というより小刻みな痙攣がおきてノーマルな呼吸ではなくなった。

おもわず『死ぬなよ!』と念じ,まわりにあったクッションに頭をのせて彼女をそっと寝かせる。

まもなく硬直した身体は虚脱へと向かいはじめ,相前後して浅い呼吸から深い呼吸へ・・・さらに爆睡ともいえる昏睡状態へと変化していった。念のため四肢を確かめると弛緩性麻痺の所見を呈していた。

ホッとして溜め息をつく。

それにしても嵩子の心身に何が起きているのだろう? 私の医学知識にはこのような疾患は見当たらない。強いて当てはめるとすれば・・・てんかん発作だろうか。だとしても通常のそれではない。強い精神的ストレスを受けたさいにのみ誘発される特殊なてんかん発作? 仮にそうであったなら,朦朧状態へ移行しないのはおかしくはないか? 事実,彼女はなかなか目覚めなかった。

時間があるので部屋の中をひとつひとつ丹念に調べていると,チェストの上に便箋タイプのレポート用紙を見つけた。

そいつを開いてみる。

 

   カレンダー見たくない

   部屋のは1月のまま

   トイレのは3月のまま

   新しくめくる気力はない

   台所の食器よごれっ放し

   あの時から汚れたまま

   ごみも2月からそのまま

   この部屋の空気は変わったきり戻らない・・・

   

   二人でうつった写真ながめるのが恐ろしい

   涙ながしたくない

   今はただ悲しみと苦しみしかもたらさない

   これ以上・・・これ以上は書けない

   どんな言葉も・・・空しい

   どんな思いも・・・届かない

   

   ずいぶんビールのびんと缶がたまってしまった

   どんどんたまっていく・・・

ほかに生きる道はまったくなし

   絶望と・・・一生ふさがらぬこころの大きな穴

   もうどうにもならない

   どうすることもできない

   あなたとその人はどんどん進んでいく

   

   もはやどうすることも出来ぬ・・・何もできぬ

 

 おのずと眠っている彼女の顔に視線が吸い寄せられる。

『絶望のどん底に突き落とされても,嵩子はオレを見ているのか・・・』

出逢ったころの快活で笑顔の似あう彼女を思いだした。

『おれは,期待を抱かせて,信じさせて・・・壊せなくなるまでに嵩子の想いを育ててしまった』

また,こうも思ったりした。

『心底だれも愛せないのなら,嵩子と一緒にいてもいいはずなのに・・・』

 さりとて自己分析はまるで深まりをみせなかった。決心をひるがえす考えなど私には微塵もなかったのだ。これほどにすさんだ嵩子を見ても,婚姻は本人の意志で決まるものと頭から信じ込んでいた。

『だが,いったいどうすれば・・・?』

 なにが起きているのか判然としない嵩子の異状で,たった一つだけ断言できることがあった。それは,別離の危機が直接の引き金になっていること。くわえて彼女の記した一文を読んで以前にも増して強固に確信したこと・・・否応なく別れようとすれば,嵩子はかならずや命を絶とうとするにちがいない。生きる意味をうしない,生のすべてを拒絶することだろう。

「ゥン~ン」

考えあぐねるうちに,横たわる嵩子がちいさく唸った。のぞきこむと瞼が重々しく開いて・・・いまだ虚ろなマナコ。じきに瞼を閉じて彼女はふたたび眠ったようにみえたが,目尻から光るものがナガレ落ちてくる。

それが泪とわかったとき,ある思いが突如として心をかすめた。

『ナゼ・・・決めつける? イマのままでは嵩子に幸せはないと,どうして決めつける? それは・・・オレ次第ではないのか?』

 伝い落ちるナミダの雫を見ていると,不正なことも許されるのではないかと思えてくる。その結果もたらされるであろう未来を推測する余裕はなかった。未来の苦渋にみちた場面を一コマだって想像することができなかったのだ。分からないゆえに歩んでいけそうな気がしてくる。

『死なせてしまうくらいなら,お互いどんなに苦しくても,オレのそばで生きていたほうがいいのだ』

 またたく間に私のこころは不純な魂胆に占拠されてしまう。

『そうだ・・・この道しかない』

 

 嵩子が会話できるようになるまで1時間強,かろうじて歩けるようになるまで4時間弱を費やした。その日ばかりは腹をくくって彼女と共に夜を過ごさねばならなかった。

『おれは,おまえとも一緒に生きる。そして,おまえを幸せにしてみせる』

 これが私の行きついた最終結論だった。そのかいあって帰るころには彼女の心身はどうにか落ち着きを取りもどした。

 

 帰宅したのは,明け方になってから。

「患者が急変したんだ・・・」

と,ウソをつかざるをえなかった。真子はとくに怪しむ素振りをみせなかったので胸を撫でおろす。しかしながら,心には重石を引きずるような後ろめたさがあって気分が晴れることはなかった。

 




 こうした状況のなかにも,否こうした状況だからこそ,結婚に向けての準備を考えはじめる。

指輪なんか嵌めないからオレは要らない,式は内輪で済ませて教授や上司を呼んでの披露宴はやりたくない,医局のしきたりを破るからには新婚旅行にも行かない・・・そんな虫のいいハナシを真子は文句も言わずに聞き入れてくれそうであったが,正式に契りを交わしたわけではなかった。

まずは自分の気持ちをカタチにしてきっちり彼女に示し,契りを結ぶことが重要ではないか。そのうえで具体的なことを順番にきめていくこと。

 

ゴールデンウィーク後半,渋滞をかくごでドライブに出かける。

どこかスカッとするとこへ連れてって・・・と真子に注文をつけられ,加賀インターチェンジから吉崎御坊・北潟湖経由で東尋坊へ。

タワーの前は案の定クルマでいっぱい,係員に臨時駐車場へ誘導されてしまったので,こうも人出が多くては断崖絶壁の魅力も半減か? と思いきや,遊歩道をすすんでいけば大自然の迫力は絶大,これはすごいわって真子も感慨無量といったようす。

匂いにつられて海鮮焼きに舌鼓を打ったのち,軒をつらねる土産物屋で彼女が見入っていたものは天然石・・・さまざまな色が混ざり合って不思議な輝きを放っていた。

「このあたりで,とれるのかしら?」

「さあなぁ・・・」

テキトウに返事をしつつ,エンゲージリングのことに思いをはせる。こっそり購入してビックリさせたいところであるが,サイズがわからないことにはできかねるプランだ。それとなく訊いてみる?・・・にしたって,正確でなければあとで直さねばならない。いっそ秘密裡に進めるのはあきらめ,直接本人の指に合わせて買ったほうが無難かつ確実というもの。

「石もいいけど,近いうちに指輪を買いにいこうか」

真子はニッコリして「それって,いつ?」

「ん・・・今月かな」

 手に取っていたキレイな石を,彼女はすんなり元の場所にもどした。

 

 5月末の,たぶん土曜日,武蔵が辻の名鉄丸越で真子と待ち合わせる。

考えてばかりではなくて少しでも前へすすむこと! とりあえず彼女が出版社の人から聞いたという宝飾店をたずねてみることにした。

その店はデパートの裏通りにあって,こぢんまりと営業していた。

用件をたしかめると,店員たちは熱心に辛抱づよく説明をくりかえし,知識をほとんど持ち合わせない私たちにそれ相応の品を売り込んだ。生涯に一度っきりの贈り物が安物であってはいけない,値段的にもイチ推しのそいつから目を背けることができず,結局0.4カラットのダイヤモンドリングを注文したのだった。

VVS-2の透明度,価格は83万円・・・こんにちであれば,それほどクラリティやカラーにはこだわらなかったことだろう。リングには初めて結ばれた記念パーティの日付を刻印してもらった。

 

 7月に入って梅雨空がつづく。

その年,七夕は日曜日。 前日の土曜から,久しぶりに真子と東京へ出かけて羽をのばした。上越新幹線の東京駅乗り入れに気分は上々,あいにくの雨も都内では降ったり止んだり・・・予約しておいた溜池ちかくのホテルに着いたのは20時ごろ。

六本木はいつものように若者でごった返していた。混んでる店には入る気になれず,赤坂通り界隈の知ってる店でホドホドに食事をすませ,そのあとホテルに戻って36階のラウンジへ・・・ぜがひでも夜景の見えるところで,スパークリングワインで乾杯を!って考えていた。

むろん選んだのは,シャンパン。テイスティングなど一連の手順が儀式のごとくオレの心意気を鼓舞する。

ソムリエがテーブルを離れるのを待ってから,おもむろに前々日受け取っておいたエンゲージリングを彼女の目の前へ差しだした。

右手はケースに添えたまま,さりげなく提案するつもりが,真子の瞳をじっと見据えて・・・わざとらしく告げる。

「来年,結婚しよう」

 ほんの瞬間,なんともいえない歓喜と期待の入り混ざった顔色に・・・オレは腕をひっこめながらも真子の微妙な変化を見逃さなかった。

さっそく彼女は慎重にリングを取りだし,左薬指に嵌めこむや,ひかえめに翳しつつ・・・「アリガト」

うなずいて真子は微笑んだ。視線には了承の意が込められている・・・わが願望,ここに叶えられたり。

「おれたちの,これからにカンパイ!」

 合わせたグラスの澄んだ音色は,しずかに波打ち,無上の心地よさを醸しだした。夜のすばらしい大都会の眺望と相俟って,日ごろ背後にのしかかる板挟みの重苦しさも吹き飛んでいく・・・。

「8月,夏休みをとって旅行に行こうか」

 しぜんと今やりたいことを口にしていた。

「ホントに?」って真子。

「ほんとに!」

彼女は笑顔を絶やさずに小さく頷いた。「どこへ行きたい?」

「夏は・・・北海道かな」

「北海道に婚前旅行か・・・いいね」

 

 その夜,私と真子は激しく幾度も求めあったのだった。

 




 東京へ行った次の週,大学病院の医局にわたし宛ての手紙が一通届いた。差出人はなかったが,筆跡で嵩子からだとわかった。

 

あなた・・・

「彼女が好きだから結婚する!」

どんな言葉も・・・

      どんな思いも・・・

         尽くしても,尽くしても・・・

その心,その思い,その決心にはかなわない・・・

一番聞きたかった,一番納得できる,一番・・・

         一番・・・・・・悲しい言葉・・・・・・・・・

 

かなわないよ・・・

それでも・・・

      それでもあなたが好き

         世界で一番!この世で一番!だれよりもあなたが好き!

愛しています

 

あなたはわたしの命!この心は変わらない!

 

死んでもあなたのそばを離れない!

      離れることなんかできないよ!

 

         愛しています・・・

                     6月の終わりに・・・ 嵩子

 

 時刻がくると,仕事を中途で終え,大急ぎで嵩子のアパートへ。

息せき切って「きょう,テガミ読んだよ」って告げると,「わたしの心は変わらないから・・・」って答え,近頃にしては珍しく彼女はおだやかだった。嵩子を抱き寄せ,そのまま欲望に身をゆだねる。

いつもは真子の顔がちらついて性欲のおもむくままに行動しきれない自分がいたが,このときは愛のこもった手紙に刺激を受けたのだろう,たかぶる嵩子への気持ちが真子をすっかり頭から追い払ってしまった。

嵩子が落ち着いてくれば,ジレンマの状況にも順応できるかもしれない,と帰宅の道すがら楽観めいた気分になった。

けれど・・・いかに安らかに感じられるときがあったとしても,良い方向に事態が向かうことなどありえない空想に過ぎなかった。

 

 

 

 8月上旬に6日間の夏休みをとった。

前後の日曜日を含めると休暇は8日間あったが,前の日曜を代理ドクターへの申し送りを主とするカルテ記載と旅支度のために費やし,後の日曜は身体を休めるために除くのが妥当,実質6日間の日程で北海道旅行に出かけることになった・・・言うまでもなく真子とふたりで。

北海道を鉄道主体で移動するとなると,短期間に多くの名所を巡るのは困難であろうし,宿泊する場所を考えて予定を立てるのも厄介である。それで車に乗って行き当たりばったりの旅をすることに決めたのだった。

月曜日になった深夜1時過ぎ,コロナクーペで金沢を出立する。

 

北陸自動車道を途中で仮眠をとって新潟まで,そのあと国道7号へすすむ。早朝に五十川なるJR駅のトイレを失敬し,朝のうちに鳥海ブルーラインを登って大平展望台で一休み。鳥海山は見えずとも意気はますます盛んになり,秋田県に下りて7号をひたすら北上する。大館より国道103号へ曲がって15時前には十和田湖に到着。休屋から遊覧船に乗って湖上をめぐり,展望スポットごとに降りては見て一周道路をドライブ,十和田神社にお詣りしてから貸しボートで湖水を楽しみ,湖畔を散歩して息をきらし,ホテルのテラスで少々のビールで乾杯,それから夕食をとってゆっくりと休憩する。奥入瀬渓流は真っ暗闇で景観を堪能できる状況ではない。あきらめて青森へくだり,午前1時過ぎ発の青函フェリーに乗船して船中泊することになった。

 火曜日,午前5時過ぎ函館に着く。まず函館山とその周辺を駈け回ってから出発。大沼を観て駒ケ岳を眺めながら国道5号を北へと向かい,長万部で国道37号へ分かれ,礼文華峠付近で『峠の家』というラブホを見つけて中休み。風呂に入ってすっきりしたものの洞爺湖をまわる余裕なし。登別室蘭ICより道央自動車道をはしり,霧が深くなって一たん札幌南ICで一般道へ降りる。しかし道路事情から時間が足りなくなると判断,Uターンして再び道央自動車道に入り旭川へ直行。高速を降りてからも休むことなく国道40号を全速で飛ばし,1930分頃ようやく稚内に到達。駅の観光センターへかけこみ,そこで紹介してもらった旅館に飛び込みで宿泊した。この日,国道40号の周りに広がる澄んだ森の深緑にいたく感動,また旅館ちかくの居酒屋で食べた大粒のイクラおにぎりの美味しさが今なお忘れられない。

 水曜日は午前6時にスタート。ノシャップ岬と稚内公園を巡ってから,宗谷岬をたっぷり満喫。そののち国道238号の海岸線を南下,知っているつもりでも土地の広大さを目のあたりにして驚嘆する。紋別,サロマ湖,ノトロ湖を経て,12時に網走の三眺で昼休み。もちろん鏡橋をわたり刑務所前を見学,午後には原生花園駅に寄り道し,斜里から知床横断道路に向かい,オシンコシンの滝を観覧。ウトロ・知床峠・羅臼を通り抜け,国後島を見渡しつつトドワラ・ナラワラ見たさに野付半島へ立ち寄った。展望台で真子が望遠鏡をのぞいて「あっ」と叫ぶので,何事かとおもえば滅多にみかけない荷馬車の光景。国道244号に戻るも半島を回ったおかげで焦りまくって根室に至り,1730分納沙布岬に達する。岬をまわり,売店で花咲蟹を一杯ずつ食べて外へ出ると,はや薄暮れ。根室から国道44号で釧路に着いたのは夜遅くのこと,やっとのことでラブホを探しだし宿泊。ホテルでは時刻と二人の名前を記した日本最北端到着証明書を前にして祝杯をあげる。そういえば宗谷岬からはサハリンがおぼろげに望まれ,開拓者魂のような男のロマンが掻き立てられた。いつか再びこの地に立ってみたい,そう夢みたのが懐かしいかぎり。

 木曜日,弟子屈から待望の摩周湖へ行く。第一展望台,第三展望台とめぐるも残念ながら一面が霧で覆われていた。埋め合わせにレストハウスでイヤリングを買って真子にプレゼント。屈斜路湖まで足を伸ばして砂湯の湖畔でアイヌの人たちと写真撮影,弟子屈にかえって阿寒湖へ向かう。道のながれで国道241号をはしり,足寄で買い出し,帯広を通りぬけて国道236号から国道336号へ入り,1530分襟裳岬に到達する。雨風が吹き荒れるなか,岬のできるだけ南端へ歩いて行ける所まで,途中から真子と手をつないで挑んだ。身に当たる厳しさも妙に心地よい。いい気分で海岸線沿いに国道235号を苫小牧まで,つぎに道央自動車道へすすんで北上し,札幌ICで降りて市内で一休みしたのち,札幌西ICから札樽自動車道へ入って夜中には小樽に至る。疲れきって探しまわる気力はなし,旅の恥はかき捨て,コンビニの若い店員に教えてもらい,その日もラブホに泊まる。風呂上がりにビールを飲んでいると,いけないと思ったけど摩周湖で摘んできちゃった,と真子がクマザサを手にして微笑んだ。彼女が辺りのものを手折ってしまったのは,もしや霧のなせるわざではなかったか。

金曜日は小樽市内を散策する。腹を空かせて寿司屋で昼飯を食するが,観光客用で期待したほど美味しくない。神威岩をたずねて積丹をぶらぶら,あっという間に時間が過ぎ,あたふたと国道5号に戻る。ニセコを通って長万部から往路を逆走。ところが23時前,八雲で怖れていた事件が勃発する。夜中なのに待伏せパトカーに追跡され,追越し禁止違反で捕まってアウト! 速度超過と合図不履行の違反は目をつぶってやると警察官に恩着せがましく言われ,よけい汚いやり口に腹がたつ。精神的に落ちこむも函館まで懸命に運転,午前2時台の青函フェリーに乗って往きと同じく船中泊する。今にして思えば反則金が九千円で済んだのは警察官の配慮だったかも。

土曜日の早朝に青森に到着。どうしても奥入瀬渓流を遊歩したくて国道103号を再度十和田湖へ上る。銚子大滝の上流に車をとめ,白絹の滝までを1時間余りで歩き味わって往復する。子ノ口で昼の腹拵えをして湖畔のドライブをもう一度楽しんだあと,瞰湖台で十和田湖を見納めて旅の終りを惜しみながら急いで帰路につく。大館から国道7号に入り,二ツ井町のきみまち阪で米代川と対面し,さらに能代までいって休憩。秋田からは夜の日本海を眺めては時々一服,新潟で北陸自動車道にすすんで仮眠をとっては運転する。

 日曜日午前6時前,金沢着。

 ビールを飲んで無事にフィニッシュしたことを喜びあうも,一缶空けないうちに双方とも眠りこけていった。




ドライブ旅行は日程がきつくてずいぶん骨身にこたえはしたが,これほど楽しいと感じたことは今までになかったと言ってもいい・・・違反切符さえ切られなければ,このうえない最上の心持ちに浸れたはず。

そんないい気持ちも長続きしないことは重々承知している。けれど,まさか次の日に,奈落の底へ突き落とされたような気分に陥ろうとは・・・思いもよらないことだった。

 

 旅行の興奮さめやらぬ月曜日,予定表では嵩子は準夜勤務だった。彼女の具合をさぐろうと,まだメイク前であろう15時ごろ,仕事の合い間をぬって公衆電話からやさしく呼びかけてみたのだ。

「タカコ・・・だいじょうぶか?」

 この発言は,たしかに問題だったかもしれない。ややあって,耳をつんざくような声。

「バカやろう! 別れたいなら,ソク別れてやる!」

『???』 とても彼女とは思えない。

「ナニサマのつもりだ! 幸せにしてやるなんて,よく言えたもんだ! わたしの前からトットと消えうせろ!」

『・・・』

「早く,そうしてしまえ!」

 おそろしい剣幕でまくしたてられ,そのあげくにガチャっと通話は切られてしまった。

これが,ホントに嵩子なんだろうか?・・・まるで別人のような口調に耳を疑うばかりであったが,声の主が怒鳴りちらしたその内容に関しては,現在の状況に整合していると認めないわけにはいかなかった。

病棟に戻っても,さっきの声音と言葉が脳髄に絡みついて離れない。ふと手がとまり,カルテの記述が遅々として捗らなかった。

『なんとか時間を割いて嵩子と会わなくては・・・』

 

 翌日の火曜日。集中はおろか根気もつづかず,診療に区切りがついたのは22時ごろ。気になって仕方がないので嵩子のアパートへ立ち寄った。

あのころ嵩子が塞ぎこんでいない日はめったになく,その夜も彼女はリビングでうつむきかげんに座っていて,いちだんと鬱的だった。

「タカコ・・・」

呼びかけても無視する感じで返答がない。一種ただならぬ空気にこれまでの異状を思いだし,なおのこと慎重にならざるをえなかった。

ほどなく彼女は顔をあげる。

「タカコ?」

ずっと前方を一点凝視している。

どうしたものかとモタモタするうちに,不意に彼女は立ち上がった。そしてフラフラとした足取りで歩きはじめ,右往左往しつつキッチンで立ち止まり,台の開き扉からギクシャクと取り出したものは・・・

なんと包丁!

面くらって気が動転しながらも,刃物を取りあげようと嵩子に近寄ったその刹那だった。

いきなり彼女は私のほうへ向きなおり,驚くなかれ包丁を両手で突き出したうえに振り回したのだ。あやうく腕を切られそうになって,すぐさま嵩子の手のとどく範囲から一歩しりぞいた。

思いのほか,嵩子の動きはトロかった。とっさにグルリと回りこみ,右側面から近づいて彼女の両手を自らの両手ですばやく掴み,その勢いのまま右手で包丁を奪い取った。抵抗するチカラも弱々しい。

すかさず跳びのくと,刃物を取り戻そうと彼女はあわてふためいた。私を追いまわす所作は,やけに遅くて鈍くてふらついている。よく見ると・・・いくらか眼はトロンとして意識はクリアではないのか?

ともかく尋常とは思えない。のろまな彼女の隙をみて包丁をキッチンの冷蔵庫の上に置いた。感づかれた気配はない・・・生命の危険と自責のストレスにさらされて鎮まらなかった心の戦きがホンのすこしだけ和らいだ。

 包丁を求めて嵩子は部屋中をうろうろと探しまわった。そのくせ足もとが定まらず,イマにも躓きそうで放っておけやしない。彼女の前を後ずさりして,ぶつかりそうなものをことごとく端に除けておかねばならなかった。

そうこうするうちに疲れてきたのだろう,嵩子はソファに倒れこむように横になるやいなや,荒々しい呼吸をしだしてあまりにも深い,5月と似かよった深すぎる眠りに陥っていった。

へなへなと彼女のもとに座りこむ・・・『よかった!』 何事も起こらずに済んだのだ!

とはいうものの・・・嵩子はマトモではなかった。おそらく意識障害をきたしている。緩慢すぎる動作も変だった。

例によってアノ疑問が湧きあがる・・・嵩子の中でいったい何が起こっているのだろう?

ますます分からなくなった。くわえて心に染みるように,穢れなき彼女の寝顔が訴えてやまないもの・・・天の啓示? 常軌を逸した嵩子の振舞いは,オレの言動が万死に値するってことを知らしめているのかも?

イマはしかし,そのようなことを云々している場合ではない。

どうするべきか?

・・・いつもオレが誘因なのだ,なにかキッカケを作っているのだ。

今回,ナニも告げずに旅行に出かけ,一度も嵩子に連絡を入れなかった。きっとそのことが関係しているのでは・・・ないか?

 できることなら目覚めるのを見届けてから帰りたい。そうしたいのはヤマヤマであるが,一方でココにとどまる気持ちにはどうしてもなれない。よりいっそう良くないことが起こりそうな気がするのだ。

『かえろう!』

オレがいれば,かえって嵩子はおかしくなる。ひとまず今夜は帰ったほうがいい・・・もっと時間を作ってから出直してくるのだ。

うしろ髪を引かれる思いで私はその場を立ち去ったのだった。

 




 じきに,お盆になった。

これこそ天佑とばかりに,富山県にくらす母を三年ぶりにたずねてみると偽り,泊りがけで嵩子のところへ行くことにした。

前もって電話しておいたが,ドアを開けるとき,彼女が普通であるようにと願わないではいられない。

リビングに入ると,タバコを吹かして嵩子は窓の外を見やっていた。

「ただいま・・・」

声をかけても返事がない。といっても,この前のような異様な雰囲気は感じられなかった。

あきらめかけたころに「おかえりなさい」と,チラッとこちらを一瞥した。おだやかな彼女の声色を聞いてホッとする。

「きょうはどうする? どこかへ食べに行こうか?」

「あなたの好きなようにしてください」

 窓の外へ目を向けたまま,嵩子はヨソヨソしい言い方をした。

「なにが食べたい?」

「なんでもいいです」

「寿司屋がいいかな? それとも居酒屋? 焼肉という手もあるかな?」

 すこし考えて彼女は言いなおした。

「やっぱり止めておきます」

さらに付け加えて「ここにあるもので,なにか作りますから出かけなくてもいいです」

「そうか・・・」

 彼女は立ち上がり,支度をしにキッチンへ。

 

 角瓶の水割りを自分でこしらえて飲んでいた。二杯目を嗜んでいるところへ運ばれてきたのは・・・ツマミ一人分。嵩子は私のとなりに座った。

「おまえは食べないのか?」

「わたしは要りません」

「どうして?」

「おなかが空いていないからです」

強要はいけない・・・彼女を刺激するようなことは禁物だ。嵩子は窓際にもどり,コーヒーをひとくち飲んで,またぞろタバコを吸いはじめる。

いたずらに時が過ぎてゆき,ホロ酔いかげんで気が緩んできたころ,もどかしくて喋らないではいられなくなった。傍らにいって座りなおす。

その晩,すこぶる気になったこと・・・「こんやは,なんでそんなに他人行儀なんかな?」

「・・・」

「なんか変だよ」

「ふつうに話したら,文句ばかり出てきそうだからです」

「いいよ,それで」

「あなたはいいかもしれませんが,わたしにはよくないことです」

「わからんな」

「わからなくて結構です」

「今,こうして一緒にいる時間を大切にしようよ。せっかく,ここに来ているんだから・・・」

 自分では気づかないうちに他人を傷つけてしまうのはよくあること。この時もそうだった。無神経な私の言葉と素振りで心境が変わり,嵩子は苛立った。

「わたしだって大切にしたい。あなたはせっかく来ているって言うけど,わたしだって我慢ばかりしている・・・我慢してあなたに期待していたら,けっきょく報われないで,反対にどんどんイヤな女になってしまう・・・だから,もうあなたには期待したくない」

 彼女の言い分はもっともである・・・なにも言い返せなかった。しかし,感情的な理性がアタマの隅っこで反抗をこころみる。

『期待しないためにヨソヨソしい態度で接するというのか? なら,それはそれで仕方がない。でも本気で期待しないのなら,一緒にいないほうがいいんじゃないのか!』

 堰を切ったように嵩子はつづける。

「今月,あなたから連絡がなくて,無性にイライラしてしょうがなかった。そうして気がついたら,あなたの家のまえに来ていたわ。夜中にナンドもナンドも行ったけど,灯りが点いていなくて,わたしは気が狂いそうだった」

思い返すうちに彼女はハッとしたらしい,上擦った声で「そうじゃない,もう狂ってしまってるわ!」

 クルウ・・・と聞いて,刃物を持ち出した火曜日の一件を思い起こした。

「わたしは,どうしたらいい・・・?」

 あの出来事について,まず確認しなければならない。

「今週,火曜日の夜のことを覚えているかい?」

「あなたが来たことは知ってるわ。でも,来てからのことは・・・よく思いだせない」

「あの日のおまえは変だった」

「ものすごくイライラしているときに,あなたが入ってきて・・・」

眉間にしわを寄せ,彼女は目を閉じて「やっぱりダメだわ,そのあとのことはわからない」

「おれが部屋に入っていくと,おまえはしばらくして,キッチン台の扉から包丁を持ち出したんだ」

意識障害のことは伏せておく・・・原因を特定できなかったし,余計なことは言わないに越したことはない。

「それから包丁を振り回して,なにせ大変だったよ。奪って隠してなきゃ,どうなっていたことやら」

「どうせなら,そのまま死んでしまいたかった・・・」

「いいや,おれが刺されて・・・」

言い淀んで,おもわず目線は嵩子のほうへ・・・マズったかな? でも彼女は,温みのある眼差しを向けてくれた。

「そんなことになっちゃったら,わたしだって,苦しまずに終わってしまえるかしら?」

「刺されたっておれは,クタばったりしないだろうけど・・・」

「どっちみち,わたしは恨まれておしまいになるのね」

「どうかな?」

 挽回しなくてはならぬ。「恨まれる謂れなんて,無くなるかも」

「・・・イワレがなくなる?」

「恨まれるまえに,元の木阿弥になってしまうってことさ」

「むこうのヒトと別れるってこと?」

 トラブルがあれば隠しおおせるものではない。真子が私から離れていくのは必定・・・なにがあっても事故を起こしてはいけないってことだ。

「そう」

 ややあって嵩子がひょいと言った。

「じゃあ,刺されてくれる・・・わたしのために」

「あぁ,いいよ」

 ウソも方便・・・いくぶん蟠りがしぼんだような?

「わたしも,お腹が空いてきたみたい」

 

有りあわせの惣菜を追加して仕切りなおしの夕食をとった。わるくない流れに気が緩んでしまい,濃いめの水割りを調子づいて飲むこと数杯・・・それがいけなかった。

晩酌のあと,湯につかると酔いが回ってカラダがしんどい。洗うのもそこそこに風呂からあがって布団に寝転がった・・・とたんに眠気におそわれ,疲労が溜まっていたせいもあって熟睡してしまったらしい。

 

明け方ちかくに目が覚める。

わきに嵩子の息づかい・・・自らの不覚を反省しながらもアソコは元気いっぱい,むらむらして胸のふくらみへ手をしのばせる。が,彼女の肉体はレスポンスを示さない。カオに触れると濡れていた。ナミダだった。

「どうした? タカコ」

「どうもしないわ」

そう答えて,さみしげに嵩子は「ただ悲しいだけ」と付け足した。

萎えゆく男根・・・こまかな事情はわからないが,悲しみの大もとはオレ以外に考えられない。

「ごめんな・・・」

 私が眠っているあいだ,嵩子はひとり悶々としていたのであろう。鬱積しているものを投げつけるように彼女はつぶやいた。

「あなたはここに来て,一緒にいる時間を大切にしようって言っていたけど,そんな大切な時間にあなたは寝ているだけ・・・あなたにとってわたしは何なの? ただのセックス相手? あなたにとってわたしは必要なの? わたしにはあなたが必要だけど,あなたには,わたしはちっとも要らないみたい。そうなの?」

 返答に窮する,オレ。

「あなたは,なんでわたしといるの?」と,なおも詰め寄られる。

「おまえがおれのこと,大好きでいてくれるから・・・命をかけて愛してくれるから」

「あなたは,わたしのことがキライでもいっしょにいるの?」

「嫌いなら一緒にいないさ。好きだから一緒にいる,そうに決まってるだろ」

「どこがスキなの?」

「どことは言えない・・・タカコの全体かな」

「わたしは自分が大キライ」

上っ面のみの辻褄合わせに彼女はアキアキし,カラ回りばかりの我が身にもウンザリした様子。ほどなくして・・・「すこし眠りたい」

 煮えきらない己れをかえりみて自身に問うてみる。

『おれは,どうして嵩子といっしょにいるのだろう?』

 こたえは・・・一つしかない。

嵩子がオレを愛しているから・・・だがオレは,真子を愛している。だから真子と結婚する。

勝手な言い分であろうと,それが私の偽らざる胸の内であった。

嵩子は・・・相当に神経を磨り減らしていたのだろう,つかの間の安息を得たように,しずかな寝息を立てていた。

 

 自らが掘り起こした穴のなかで,どうにか外界と折り合いをつけようとモガキ苦しんだ私だったが,現実に計りしれない精神的痛手を被っていたのは,変人との穴倉生活を強いられた嵩子のほうであった。

そのことを,真に理解し,切実な問題として捉えていたとは言いがたい。私には・・・頭上にカガヤク光しか見えていなかった。

しかしながら・・・よしんば把握していたとしても,如何ともしがたい状況であったと思うのだ。

 

 考えているうちにまたしても寝入ってしまい,気がついたときには嵩子が朝食を並べ終えたところだった。

「はやく起きて食べよう」

彼女から,時間を惜しむように促がされる。

「わかった」と起きあがり,テーブルで意識したことはあまり気乗りのしない話題であった。でも告げないわけにはいかない。その日の心づもりを,食べはじめる前につぶやいた。

「きょうの予定だけど・・・昼ごろに帰らないと」

「・・・」 声なき返事にオレは身構える。

「すまない」

覚悟はしていたけれど,嵩子の顔つきが変わりつつあった。「マギワに話したら,きついとおもって・・・」

「なによ,食事くらい気持ちよく摂らせてよ!」と,彼女は気色ばんだ。

一難去ってまた一難。嵐がやってくるまえに検証する・・・言わないで昼になってしまったなら,それこそどうなっているかわからない。ところが,考えているより事態はもっと深刻だったのだ。

ピシャリと箸をおき,嵩子はまっすぐにオレを見据えて問いただす。

「わたしは,あなたにとって,ホントに必要なの?」

最後の決戦を挑むがごとく・・・その眼光の厳しさに私はたじろいだ。

「そんなことは問題じゃないだろ。おまえがおれを必要としているんだから」

本質的に明け方と変わらぬ問答であった。

「それじゃ,わたしは一緒にやっていけない・・・」

「おまえがおれを必要としているから,おれはおまえを必要とするんだ」

「じゃ,あなたには,わたしは必要ないんだ」

「そうじゃないよ・・・」

「でも,わたしにはそんなふうにしか聞こえない」

「・・・」 もう訊いてくれるな!

「あなたの言っていることは全然わからない。ちゃんと,わたしにもわかるように話して!」

「おれは100%の自分が欲しいだけ・・・求めつづけ,ついに100%の地点に達したら,結局のところ,自分が無くなって100%の他人になってしまった。そいつが・・・オレという人間なんだよ!」

 彼女に触発され,二度と語りたくなかった,だれにも通じないことと封印してきた自己をさらけだす羽目に・・・なれど,火にアブラ。

「ナオサラわからないわ! 説明は要らないから,結論を言って! あなたはわたしを必要としているの?」

 まだ分からないのか! オレが唯一必要としているのは・・・相手。タカコでなくてもいい。相手と向かいあうことさえできれば十分なのだ。

「おまえが必要なんじゃない,おまえという相手が必要なんだ」

「ナ・・・ナニを言っているの! 結論だけ,はっきり言って!」

「タカコが,必要ってわけじゃないさ!」

 オノレを抑えきれず,つい叫んでしまった。『必要だ』って表明しても,あながち間違いではなかったろうに。

 瞬時に,ココロは後悔一色に染まった。

なぜなら・・・嵩子の身に,これまで幾度か目にした異常なる反応が,今まさに起きようとしていることは疑うべくもなかったのだ。

回避する術もなく,悪霊にでも魂を抜き取られているがごとき光景を,ただひたすら祈るように見守るよりほかなかった。

徐々に全身の硬直と震えのような痙攣があらわれ,タイミングを見計らって寝かせてやるのが精一杯,こと細かな成り行きについては言い表しがたく,やがて最終的には爆睡状態へ・・・それらは,おそろしく凄まじいだけにとどまらず,途中でまったくもって想定外の局面に遭遇することになった。

移行していく過程で起こった,呼吸停止!

痙攣がようやっと治まり,彼女のカラダは弛緩へと転じていった。大事に至らなくて安堵していると・・・どうみても息をしていない。いくら見ていても息をしない・・・タカコ!? まさかと思ったが,頸動脈も触れにくいのだ。

とんでもないことになった。

『チキショー! 待ってろよ,いま助けてやるからな!』

とっさに彼女を広さのあるダイニングキッチンに引き摺りだし,マウスtoマウスの人工呼吸を2回おこなって心マッサージを開始する。

どうすればいいのだ? ここには蘇生のための道具はナニ一つとしてない。当たりまえに今すぐ救急車を呼ぶべきなのか?・・・ちがうだろ! それは可能性を放棄するようなものだ。

不安が駆けめぐり,気持ちが焦るばかりで頭のなかは真っ白,わけがわからないまま心マッサージを数回は実施したであろうか。

こんなことでどうする,なんとしてでも生き返らせなくては・・・この状況下でおこなうべきは何なのか? 心マでいいのか?・・・人工呼吸をすべきではないのか?

『エェーイ,こうなったら,蘇生の方法もクソもない!』

心マッサージをやめ・・・息を大きく吸いこみながら,左手で嵩子の鼻を摘まんで右手で下顎を固定,あとは祈りをこめて彼女の口へ思いっきり一息吹き込んだ。このまま死なせてなるものかと,もう一度繰りかえす。

するとどうだ,心マッサージを再開したとたん,嵩子は息を吹きかえしたではないか! 筋肉は相変わらず弛緩したままであるものの,みるまに大呼吸をしだして仮死状態から完全に脱した手応えがあった。

『助かった!』

と思った。 119番通報していなくて正解だった。電話するあいだは施術を止めねばならないのだから。

ただし,実際に私の処置が有効であったかどうかは分からない。なにもしなくても彼女は甦ったかもしれない。あるいは,なにもしなければ致死性不整脈などが起こって死に至っていたかもしれない。

 

冷静になって検討を加えてみる。

最悪の事態・・・臨床的心停止と診断し,気が動転するなか蘇生の処置を施したが,経過から判断すると心静止や心室細動の状態ではない。

臨床的心停止の状態では,循環を維持するために心マッサージは施行されなければならない。であるから誤った対応はしていない。ただ・・・特殊な事態の,特異な局面において,有害ではないと言い切れるものかどうか? かえってトラブルが生じやすくなるのではないか?

さすがにそれはなさそう・・・それよりも,マニュアルを度外視した人工呼吸は効いたのであろうか?

あのとき・・・私の頭には呼吸停止の診断しかなかった。しかし,睡眠時に発生するような無呼吸,もしくはその延長線上の病態を考えても矛盾はなかろう。すなわちショックと無呼吸の状態で,なおかつ徐脈はあっても心臓は停止していない病態がもっとも疑われるのでないか。そうであるならば,人工呼吸を優先したことはよかった気がするし,意外と・・・なにもせずに様子をみたとしても命に別状はなかったのかもしれない。

いずくに真相があろうと,肌で感じたことは否定されるものではない。

現場の感触では,必死でおこなった人工呼吸が殊のほか効いたように思われた。それゆえ時機を逸しないで息を吹き込めたことがうれしくて,不可思議な力が働いた感じがして天に感謝を捧げたいくらい!

 ところで,嵩子は・・・正体なく眠ること1時間あまり,そのあと瞼を開けられるようになっても2時間ちかく音声を発することができなかった。

 

 意識がもどって彼女の口からコボレ落ちた,一生涯・・・ワスラレヌ言の葉。

「わたしの中から,あなたを消して!・・・おねがい」

かたわらで誓いを立てる。今後いかなることがあろうとも,嵩子をしりぞけるような言葉は,決して・・・けっして口にはすまい。

 

 夕方になっても彼女は歩けなかった。

この日,明るいうちに帰ることはできない。午後,飲み物を買いに出かけたさいに自宅へ電話を入れておいた。

それはともかく,危機を乗り切るために嵩子はどうしたのか?・・・信じたのである。どこまでも私を信じることしか彼女は知らなかった。

「おれは,おまえとも一緒にいるよ」

 節操のないセリフを発する根拠なんぞクソくらえ・・・嵩子が救われるならそれでいい。だれもが今を生きる必要があるのだ。

彼女の心身が落ち着いたところで,先ほどの生命にかかわるアクシデントを説明し,心肺蘇生術をおこなったことも明かした。

「わたしは病気? なおすには何科を受診すればいい? 精神科?」

「こころと関係しているみたいだから,やっぱり精神科かな・・・」

 そう助言はしたけれど,疑われる疾病がさっぱり分からない。

「でも心配するな。おれが,かならず治してやるから!」

 コトの発端はオレにある・・・それだけは明瞭なること。であるなら私が治せると言えなくもなかったが,抜き差しならぬ現状のなかで果たしてそんなことができうるのだろうか?・・・と自身でも疑いをいだく始末だった。

「ありがとう。きっとわたしを治してね」

「わかった」

 

その疑問は的を射ていた。結果的に私の言動は,さらに傷を深めているのみであった。





 10月初旬・・・真子は一旦,両親のもとへ帰ることになった。世話になった親戚が危篤一歩手前とかで,見舞いがてら婚姻の心づもりをつたえようと帰京したのだった。私はといえば・・・国立病院へ二度目の出張となり,なにかと忙しくて東京へ同行する余裕はなかった。逆に,寄り道して嵩子と時間をともにするには恰好の機会となった。

 紅葉の時節,波瀾は巻き起こらず小康状態を保っていた。

 

 真子が戻ってきたのはいつ頃であったのか,記憶は抜けおちて師走へと跳んでしまう・・・金沢に彼女がきてからほぼ一年が経とうとしていた。

両親のあからさまな反対はなかったらしいが,結婚のハナシは七夕のときから進んでいないに等しかった。決めているのに先延ばしにしていたのは,ひとえに嵩子のことがあったから・・・どこかで埋め合わせを,と思いつつも実現できないまま月日が過ぎていった。

そうやって,いつのまにか・・・クリスマスイヴ。

早々に仕事を切りあげ,真子といっしょに食事に出かける。リングを手渡した夏の日以来だった。

片町のスクランブル交差点の近くまでくると,あたり一帯は若者たちで溢れかえり,くっついていなければアイダに割り込まれてしまいそう・・・「ものすごい混みようだな」って口にしたら「あたりまえでしょ」って真子。喧噪につられて久方ぶりにノビノビとした心持ちへと導かれていった。

予約しておいたステーキハウスに着いたのは1930分過ぎ。その店は小路に面したビルの半地下にあって,安くはなかったけれど混まないところが気に入っていた。

 コースではなく単品で料理を注文し,ワインはマスターお勧めのマコンをたのんだ。ワインを飲みながら,目の前でステーキや海鮮が焼きあがるのをながめるのは,じつに興味深くて楽しいかぎり・・・まして美味しいとくれば,十二分にクリスマス気分を味わった。

 おなかを満たしたあとは,勢いづいて朝ちゃんのいるスナックへ。 内心では危惧の念を捨てきれず行こうか行くまいか躊躇していた・・・オープンな性格の朝ちゃんは嵩子を知っている。つつみ隠さず喋られたら,オレの不義が露呈しないともかぎらない。でも水商売のプロであれば,告げ口なんかしないものではあるまいか。

スナックは常連客で大賑わい,カウンターの客が次の店へ行くからと席を譲ってくれた。

「あら,こんやは一人じゃないのね」と,逡巡なんぞ吹き飛ばすように朝ちゃんは迎えてくれる。

「スミにおけないわね,青ちゃん」

「べつにフツウだろ」

などと,ありきたりの問いかけと受け答えがあったのだろうが,メモリーの引き出しのなかで風化してしまったらしい・・・印象に残っているのは,日常から解き放たれて大いに盛り上がったこと,それに悲しいかなウィークデイであったので24時を回ったところでおとなしく帰ったこと。

外に出てからの真子の第一声。

「かなり個性的なヒトね・・・」

「アサちゃんのことか?」

「そう,つきあいは長いの?」

「・・・かれこれ,7年ちかくになるかな」

「ふぅーん」

 その含みのある返しにかつてのグレーな部分を思いだす・・・いちど朝ちゃんと犀川べりを歩いたことがあったっけ。真夜中,猛スピードで車を走らせたことも・・・が,嵩子の場合とちがってブラックな部分はない。

そのときポケットベルが鳴った。緊急の呼び出しかとおもって表示を確かめると,嵩子からなのだ。

よりによってこんなときに・・・黙殺する手もあったが,やはり見過ごすわけにはいかない。突拍子もないことに進展しかねないし,何回もポケベルを鳴らされたら余計に困ることになるかも。

病院へかけるからと通り過ぎた電話ボックスにもどり,カラダで隠すようにして嵩子のナンバーを打ちこむと,二回目のコールでつながった。

「どうした?」

「・・・」

はやく用件を言ってくれよ!って怒鳴りたいところを,グッと呑みこむ。発作のことがある。なるだけ優しく誘導しなくては・・・。

「なにかあったのかな?」

「なにもないわ・・・」 かぼそい声だった。

「じゃ,明日また電話するから,それまで待っていてくれないか」

「・・・」

「タカコ?」

「あとで会えないかな?」

「きょうはダメだよ」

「・・・」

無言の応答にイライラする。真子がボックスの外に控えているせいで,なおさら苛立ちがツノった。

「こんな時間に,ちょっと無理だよ。この電話だって,病院ってことにしてあるんだから!」

 つい嵩子を責めてしまう。それでも一向に返事をしてくれない。もう増幅するイラつきを封じ込めなくなった。

「いい加減にしてくれよ!」

大声を出せないぶん怒気の含んだイントネーションで吐き捨て,嫌な気分になりかけた矢先だった。奇妙な口調で「ゴ・メ・ン・ナ・サ・イ」と遠く聞こえて通話はプツリと切れてしまった。

どうも腑に落ちないまま,ホッと息をついて受話器をかける。例のガチャという特有の音がボックス内になりひびき,ちょうど強制的にリセットされるようだった。たちまち関わりあるものが一つにつながり,もしや・・・という思いに捕らわれる。離さんとする右手に反射的に力がこもった。

とぎれる寸前,彼女の喋りかたは紛れもなくヘンだった。抑揚のないメカニカルな声音,しかも重症の心身障害者が片言の日本語を,一音一音ふりしぼっているみたいな・・・。

思い返すうちに,どうしようもない不安に襲われる・・・私の一言が,またもや,アノとんでもない発作を誘発してしまったのではないか?

「病院,だいじょうぶだった?」

心配そうに真子が電話ボックスの外から覗きこんだ。飛んでいた意識が一気に引き戻される。

「あぁ,行かなくてもよさそう・・・」

曲がりなりにも言葉を返したけれど,顔を合わせると嘘を見抜かれてしまいそうで,そそくさとボックスを出て歩きはじめる。

『聞き流していいのか?』

 タクシーに乗ってからも心が痛んで落ち着かなかった。

「あした・・・じゃなくて,きょうのアサは頑張って起きなくっちゃねぇ」

「ぅん」

大発作を起こせば,嵩子は死んでしまうやもしれぬ・・・真子との会話も上の空であった。

 患者の容態にかこつけて嵩子のところへ行ってみようか? ここで,いま一度ポケベルが鳴ってくれたら・・・じゃなくても,病院へ電話する振りをしてから出かけてしまえばおかしくないのではないか? それとも,むしろヘタな小細工などしないで,急変と言って平然と出てしまったほうがいいのか?

「目覚まし,いるわよね」

「えっ?」

「め・ざ・ま・し!」

「うん,要る」

 なにかしらアクションを起こそうと考えてみても,堂々めぐりで踏ん切りがつかなかった。そこへしかし,見込みちがいのことが起こったのだ。

家に着くまぎわ,ポケベルが鳴ってドキッとする。ひょっとしてオモイが通じたのか? 着信音を止めて消音すなわちバイブに変更・・・これ幸いとおもいきや,家のなかに入ってからも続けざまに着信があって,その都度もう鳴ってくれるな!と念じつつ振動を止める。

たてつづけに着信がはいるのを,真子は不思議がった。

「患者さんが亡くなったのかしら?」

「そうかもしれない」

と返事して,ポケベルの電源をオフにした。そして病院へかける振りをして嵩子に電話したところが,話し中でつながらないのだ。これはマズいぞ,マズすぎる・・・とプッシュしなおし,三度目の正直でつながったかとおもうと,予想をはるかに超える衝撃が押し寄せてきたのだった。

「アアア・ナナナナ・タタタ・ゴゴゴゴゴ・メメメ・ンンン・ナナナナ・サササ・イイイイ・・・アアア・ナナナ・タタタタ・ゴゴゴ・メメメメ・ンンン」

 片言の日本語どころではない。吃って嵩子はうまく喋れない。あたかも壊れた音声機器のように,幾度となくアナタゴメンナサイを繰りかえす彼女の異状に一切の言葉を失ってしまった。

「ゴゴゴ・メメメメメ・ンンン・ナナナ・ササササ・イイイ・・・アアア」

聞くうちに手が震えてくる。足だってガクガクと,それこそ悪寒のごとく全身に・・・向かいあう現実の恐ろしさが骨の髄まで沁みてきたのだ。

ヤバイ! 真子に感づかれてしまう・・・左手で受話器ごと右手の手掌側をつかんだが,それぐらいで震動を抑えきれるものではない。したたか力をいれて,なんとか震えが判らなくなったか?

いま・・・傷つきし相手のこころの痛手を癒しうる手段があるとしたら,それはただヒトツ。

『タカコ!』

と叫んで,わが胸の内のいくらかでも伝えたいのに,真子の前ではつぶやくことすらできない・・・あきらめて目をつぶり,ゆるしてくれと瞼の阿修羅にあやまるしかなかった。

「アアア・ナナナナ・タタタ・ゴゴゴゴ・メメ・ンンン」 すまぬ!・・・小刻みに揺れうごく受話器をしんちょうに,おそるおそる定位置に置いた。

声が途絶えた瞬間・・・イナズマがはしる! その非道な所業の刃は,シールドを切り裂き,のこり火を掻きけし,するどく肺腑をえぐった。

剥き出しになったオノレのタマシイ! そいつは,かつてない暗闇のなかでおののいた。

『とうとうタカコが壊れてしまった・・・いや,オレが打ち砕いて潰したようなものだ。せめて早急に,消滅への連鎖反応を喰い止めなければ・・・だんじて捨ておいてはならぬ。かりにも,このままタカコを見殺しにするようなことがあれば,おれは・・・もはやオレではない』

いつか嵩子のことを白状しなくてはいけなくなる・・・とは思っていた。卑怯さと後ろめたさから解放されたい気持ちも徐々に強くなっていた。ここに至ってようやく突き動かされる。

深淵から這いあがりたい一心で真子に向かって呼びかけた。

「以前つきあってた,女性のイノチがあぶないんだ。だからって許されることじゃないけど・・・いまから,その女性のところへ行ってくる」

 さっさと出かけようとして引き止められる。

「待って! どういうこと? まだ別れていなかったの?」

 問答を重ねている暇はない。

「帰ってきたら説明するから・・・たのむ,なにも訊かないで,行かせてくれ」

「・・・どうして? どうしてこんな日に?」

 一瞥するなり,強引に自宅を出ていく。 目の奥には,血の気の引いた真子の顔が・・・見たこともない怒りのこもった悲しみの顔つきが消えては浮かんで,いつまでも付きまとった。

 

 リビングのソファで嵩子はうつ伏せになっていた。小物類は部屋のあちこちに散乱,ローテーブルの上は飲み物で汚れているが・・・部屋中見回しても,血の塊りらしきものは見当たらない。ひとまず安堵するとともに,この体勢では苦しそうなので仰向けにしてやろうと嵩子を抱きよせる。そのとき彼女が目を開けた。

「アア・ナ・タ・ゴゴゴ・メ・ン・ナ・ササ・イ」

 フツウに喋ることはできないまでも,電話のときより随分ましだ。声色にも暖かさが感じられる。

「助けにきたよ」

「アアア・リ・ガガ・ト・ウ」

「おまえのことを打ち明けて,ここへ来たんだ」

 嵩子のかたい無表情の顔がこころなし曇ったようにみえたが,気のせいか。

「いまは休むことだ」

と言って,ふっと引っかかる。「きょうの勤務は?」

「ジジジュジュ・ジュ・ン・ヤヤ」

「それはよかった」

寝返りするのを手助けし,瞼が閉じられていくのをながめつつ・・・『なんで今までとは違っているのだろう?』

 これまでの発作では脱力して動けないことが多かったが,この日の嵩子は力がないものの少々ならば四肢を動かすことができた。そのかわり話すことが難しい状況にある・・・?

一貫性を欠いていて病態がまるでわからない。でも,どうでもいいではないか,そんなこと。すみやかに彼女が回復してくれさえすればいいのだ。

 それから嵩子は1時間ほど眠った。

「キキョ・キョ・ウウ・ハ・ココ・レ・デ・カカ・エエッ・テ。オオ・ネ・ガガ・イ」

「もう少しここにいるよ」

 促されても帰る気にはなれない。見守るためにフローリングの床で・・・彼女の横たわるソファのもとで寝転んでいた。

午前3時をまわったとき,いくらなんでも帰らなくては,と思った。仕事だって休めない。

「タカコ,これで行くけど,大丈夫か?」

「ダダ・イ・ジョ・ウ・ブ」

 まだ発語障害は治りきっていなかったが,ここらあたりが精神的に私の限界だった。あたえた苦痛はいかばかりかと慮る・・・待っている真子のことで胸が痛みはじめていたのだ。

心の準備が整わないまま私は自宅へもどった。

 

 真子は起きていた。

テーブルを前にして裁判官のように静かに身構えて・・・結膜は充血し,瞼があきらかに腫れぼったい。放たれる眼光はマタタくように見え,するどい視線には行き場のない怒りがこもっていた。が,まず冷静に釈明を聞こうという彼女の姿勢が見て取れて,おもわず感謝したい気持ちになる。

「ナニから話せばいいのか・・・おれにはよく分からない。できれば真子から質問してくれないか」

「あなたは・・・わたしに隠れてそのヒトと逢っていたの?」

ただちに詰問することで真子は了解の意を示してくれた。その問いに対して虚言を吐くつもりなどなかった。

「ときどき逢っていた」

「どうして?」

 考えがまとまらないままに答える。

「別れるつもりでいたけど,できなかった・・・」

「どうしてなの?」

 ありのままを言うしかなかった。

「彼女が死にそうになったから・・・」

 閉ざされた真子のこころの扉は,どのような言葉にも微動だにしない。

「いつ逢っていたの?」

「仕事がえりや研究会のあとで・・・」

 しばらく沈黙があって,ついでのように真子は訊いた。

「これからどうするつもり?」

 アシュラの顔が浮かんだ。嵩子に告げたことが思い起こされたけれど,なんとしても真子を手放したくない・・・しんそこ真子が欲しかった。

「時間がかかっても,かならず関係を絶つから・・・」

 そんなふうにつぶやく自分自身が信じられない。二人と交わした約束は二律背反ではないか!・・・たとえその場は凌げたとしても,両方の約束を果たすことはできない。それどころか近い将来,さらなる苦難が待ち受けているだろうことは目にみえている。

しかしながら,百も承知の行く末よりも,今まさに向かい合っている現実がすべて・・・どちらの約束も私にとっては偽りのない真実であったというよりほかにない。さればこそ自力ではどうしてもジレンマから逃れることはできなかった。

 硬くて冷たい表情を崩さないまま,時おり真子は厳しくてまっすぐな視線を浴びせかけた。そうすることで怒りをかろうじてコントロールしているかのようだった。おそらく真子はオレの弁明を半信半疑で聞いている。にもかかわらず,しつこく追求するような真似はしなかった。なによりも真子も私も疲労困憊していた。悪夢の夜を一刻も早く終わりにしたかった。

この夜,はじめて別々に眠った。

 

 クリスマスの日,なにかにつけて回復の具合が気になった。昼休みを待って嵩子に電話をかける。

「きのうは・・・じゃなくて,きょうはホントにありがとう」

吃るようすもなく,彼女の話しぶりは普段と変わりなさそうであった。

「だいじょうぶか?・・・準夜は行けそうなのか?」

「もう平気よ,ちゃんと行けるわ」

「よかった,これでおれも安心したよ」

「でも・・・あなたこそ,だいじょうぶだった?」

「まあな・・・」

と,言い淀んでしまう。発作につながることはコリゴリだった。

「どうなったの?」

わたしだって関与してるんだから聞かせてよって,せがんでいるふう。

「ちょっぴり,タカコのことをしゃべった」

「なんて?」

「別れていないって・・・」

 真子に表明した『関係を絶つ』という契りはどこへ行ってしまったのか,嵩子と話すときは彼女の発作のことが絶えず頭から離れない。

 

 その日は早ばやと帰宅した。が,その必要はなかったと感じるくらいに真子の態度は冷ややか・・・おさめきれない怒りを八方に発散させ,他人行儀に動きまわっている。いかように申し開きをしても跳ね返ってきそうだった。でも嵩子のことをうやむやにしてはおけない。

「マコ・・・ゴメン」

「・・・」

「おれがワルかった・・・」

「あやまって済むような問題じゃないわ!」

「わかってる・・・」

「ナニがわかってるの? あなたはずっと裏切っていたのよ!」

 この場をしずめられる答え方などありそうにない。示せるのは謝罪の気持ちのみであって明日のことすら誓えない。だいいち「今すぐ別れる」って言い切ることもできない。現状を軽視して断言すれば,ウソをウソで塗り固めていかねばならず,あげくのはては自爆するしかなくなることだろう。

ふたりとも無言で食事をした。彼女は食べ終わると後片付けや掃除や洗濯に口惜しさをぶつける。そのようなとき二部屋のマンションは困りものだ。折りたたみの小さなテーブルと灰皿を,寝室代わりに使っていた畳敷きの部屋に持ち込んで,なんとも切ない時間を遣り過ごさねばならなかった。





 年が明けてからも,依然として険悪な状況は燻りつづけていた。しらぬまに薬指の指輪も外されて・・・。

 

 1月の雪深い夜,帰宅する前に嵩子のところへ寄り道していた。

国立病院は兼六園のすぐそば,大学病院と直線距離にして一キロも隔たっていない。彼女のアパートは通勤のいわば裏道ルートにあり,立ち寄るには持ってこいであった。ただし,そこには駐車スペースが2台分しかなく,嵩子と他の住人関係者が車を止めていた場合,小路の歩道に半分乗りあげて路上駐車をしなければならなかった。

ある程度の雪が降り積もった日には,歩道に乗りあげることは困難なうえに迷惑千万な行為,その夜はしかたなく大通りに回って違法駐車をしていた。

じつは車をとめた場所から二百メートルほど先に交差点があって,その十字路の一角に真子の勤める出版社の本社ビルが建っていた。もちろんそのことは知っていたけれど,時刻が遅かったので別段気にもしていなかった。

家にかえると,着替えもしないで真子が待っていて・・・『おや?』 どうしたんだろ・・・「ただいま」

「どこからの帰り?」

「どこ?」

おもわぬ問い詰めに私はたじろいだ。「病院からだよ・・・」

「うそよ!」

「・・・ウソって?」

「会社を出て,たまたま通りに目を向けたら,あなたの車を見つけたのよ!」

 そういうことか。真子は仕事かなんかで遅くなったってことだ。偶然が重なって危ない夜もあるかも・・・と思ってはいたが,それが今夜だったとは!

「すまなかった。用事があって回り道してきたんだ」

「どこへ?」

 嵩子の住んでいる場所を真子は明確には把握していなかった。

「・・・向こうにちょっ」

 言い終わらないうちに,険しい目つきで真子がこちらへ迫ってくる。ハッとして身構えた・・・押し倒される! はたして彼女は,両手で力いっぱい私の胸を突きとばした。うしろのソファに勢いよく飛ばされてしまったオレ。

そのうえ予測する間もなく,いきなりクッションが眼前にあらわれ,払いのけることもできなかった。

でも,これでいいんだ・・・なんであろうと罰として受けとめねば。

「なによ,こんな状況で,やっていけるとおもうの?」

「ゴメン」

「そんなんじゃ,あなたはいつまでたっても別れられっこないわ!」

「時間をかけてナントカするから・・・」

「ジカン?・・・いつまで待てっていうの」

「それは分からない」

「なんて身勝手な・・・わたしは,もう待てない!」

見限るような冷めた口調で彼女は言い放った。これじゃ最後通牒を突きつけられたも同然・・・唇を噛みしめる。いかなる事態になろうとも真子を諦めるなんてイヤだ。そうしてヤミクモに絞り出した文句は,ただの捨て台詞に過ぎなかった。

「おまえも,なってみたら分かるさ」

「わかるってなにを?」

「マコだって,おれの立場だったら・・・同じようなことをしないともかぎらないだろ」

「ゼッタイ,おなじい立場になんかならないわよ」

 そのとおりだ。真子がこのような状況に陥ることはない・・・これはオレが招いたこと。スジ違いもいいところ,弁解にも言い逃れにもなりゃしない。

「あなたへの気持ちが,ちょっとずつ変わっていくような気がする・・・」

「おれは,ぜんぜん変わらないよ,マコ」

 そのあと彼女は一言だって口をきいてくれなかった。

 

 真子が東京に帰ってしまう懸念をよそに,相も変わらず私は嵩子のところへ顔を出していた。密通に勘づいていたのだろう,非難こそ真子は口にしなかったが,日を追うごとに私をあからさまに無視するようになった。

それは彼女の内部で『オレ』が進行性かつ不可逆的に変質していることを意味していたが,真子に対する私の気持ちは浸食されることがなかったから,金沢で生活してくれる限りどうにかなるだろうと高を括っていた。

 ところが,春の足音が聞こえて間もないころ,そいつは大変な誤りであると図らずも思い知らされる。

 

 3月中旬,まだ肌寒い週末の夜。

出版社の送別会に出席して真子は家を空けていた。嵩子はというと,折あしく準夜勤務・・・それで,足がしぜんと片町へ向いたのだ。

 朝ちゃんのいる店で格別楽しく飲んだわけでもないが,日頃の気遣いに疲れていたのだろう,それなりの憂さ晴らしにはなった。

しかし,飲みすぎて夜更けになれば,どうせろくなことはない。余分なストレスを溜めないためにも真子より早く帰宅しようと,23時頃には朝ちゃんの不満げな見送りをうけたのである。

人のまばらな裏通りをぶらぶらと,ラブホテルの正面を横切る小路へと曲がった。目に飛び込んできたのは一組のカップル・・・私より背が高くてやや太めの男性と,いかにも均整がとれて艶めかしい女性のうしろ姿。

いささか女は酔っているのか,よろめいて男に抱きかかえられ,そのまま一緒にホテルへ入ろうとする・・・刹那にチラリと見えた,たちどころに酔いが醒めてしまうほどの,オンナの横顔。

自身の目を疑いたくなるくらいに,そっくり? 否!・・・突如,直観的に下された審判はイナズマのごとく脳天をつらぬいた。

あれは,まぎれもなく,真子だ!

追い討ちをかけるように・・・脳味噌が焼けこげる間に,二人はホテルの中へと忽然と消えてしまったのだ。

あわててホテルの入り口に駈けよった。だが,覗きみようにもフェンスに遮られて中の様子はまったく窺い知ることができない。

一歩退いて立ち尽くす・・・今しがた,目の前で繰り広げられた信じられない光景を,細部にわたって一つずつ吟味せずにはいられようか。

あのヘアースタイル,あの見覚えのあるような服の色あい,あのウェストからヒップへのシルエットライン,あの微かな笑いを形づくる口もと,とりわけあの仕草の・・・いいようのない滑らかなバランスの良さ。

時間をかけて反芻し,確証にちかい印象を得てからも受容したくなくて思い直してみる。なれど・・・願うような結論に導かれることはなかった。

不意に胸の奥底から,憤怒がモーレツに湧き上がって,湧き上がって,湧き上がって・・・一挙にカラダの隅々に流れこみ,アタマは巨大なマグマだまりへと変容していった。

『真子! これがおまえの本心か!』

 踵を返さずにはいられない。怒りにまかせて荒々しく路面を踏みつける。落ち着こうにも次々に激情が押し寄せてきてどうすることもできない。信じたくもないシーンが見えるものより鮮やかに網膜に映しだされ,悶々とした感情を繰りかえし増幅させていく。

あっという間に朝ちゃんの店のところまで戻ってしまった。が,再度顔を合わせたくはなかったし,だれとも喋りたくない・・・ひとりで居酒屋のカウンターでやけ酒をあおるよりほかなかった。

いつしか,ただの酔っ払いと化し,あげくに千鳥足でふらふらと帰ることになろうとは・・・どこへ? むろん嵩子のアパートへ!

 気がついたら隣に嵩子が眠っていた。たぶん準夜勤務から帰ってきたところへ押しかけたのだろう。ガンガンする二日酔いの頭脳で,飲みはじめてからの断片的な記憶を辿っていると,突然・・・あのイマイマしい光景がはっきりと鮮烈によみがえる。その映像を殲滅するべく,嵩子と交わるだけではあきたらず激しく愛することで真子に復讐した。

 恋人の荒れている事由なんぞ嵩子には取るにたらないことであったにちがいない。いつになく彼女は悦びに浸りきっていた。「気をつけてね」・・・朝食を食べずに帰ろうとしても,そう言ってやさしく送り出してくれたのだから。

 

 羽目をはずしたりした場合,どれほどウォーキングが好きであろうと,早朝に歩いて帰ることは避けたほうが無難である。早起きの人たちと必ず出会うことになり,どう取り繕ってみても白い目で見られるのが落ち・・・だけど,この日曜日の朝はそれどころではなかった。

なにかに追われるようにスタスタと歩みをすすめる。いくらか時間が経ったことで多少アタマも働くようになったけれど,家に近づくにつれて怒りがじわじわと高まっていくのを喰い止めることはできなかった。

『元をただせば,オレの責任ではないか』

真子のこころが私から離れたとしたら,その要因は私自身の言動にあるといわざるをえない。かくも正しいことはないだろう。そうであっても,真子を許せない気持ちは理性とは別物であった。 理性は家に着いたとき,感情によって完全に息の根を止められた。

彼女は眠っていた。その寝スガタを見るなり,嫉妬と憤怒の混ざりあった情動はよりいっそう荒れ狂ったのだ。

「マコ・・・真子! 起きろよ!」

目を覚まし,すばやく起きあがった彼女・・・鬼のような私の形相にびっくりしていたものの,目つきは冷たく刃向っていて『なんでわたしが非難されなければいけないの?』とでも言いたげな態度を示していた。

「おまえは,きのうの夜,どこへ行っていたんだ!」

「ナニを言ってるの?」

「きのう送別会が終わったあと,おまえはどうしたんだって言ってるのさ」

「二次会にきまってるでしょ」

「そのあとは」

「どこへも行かないわ・・・」

「冗談言うんじゃないぜ! おれは見たんだよ」

「・・・」

彼女の目線が動いた。

「おまえが,オトコとホテルに入るのを,この目でしっかり見たんだよ!」

「そうなの・・・」と,ため息まじりに彼女はこたえた。

すると,身構えていたものが真子から消えていくような感じがして,防御も攻撃も捨てたような自然体で彼女はつぶやいた。「わたしは,どうにもできない苦しさから解き放たれたかっただけ・・・ただ,それだけ」

意外な返答であった。ナミダが頬を伝って零れおちる。

「あなたのことで毎日毎日がつらくて,でも誰にも相談できなくて,それできのうはすこし飲み過ぎたみたい。二次会が終わったところで先輩が送ってくれて,そのときに告白されたの・・・好きだって。信じられなかったけど,わたしはうれしくて,なにか救われたような気がしたわ」

「で,好きにでもなったのか,そいつを」

「そうじゃないわ。誤解しないで・・・告白を聞いたとき,あなたの言ってたことを思いだしたの。おまえもなってみたら分かるって・・・あなたが言ったのよ。おぼえてないの?」

「バッ,バカいうなよ,おぼえてるさ」

見破られて苦しまぎれに吐いたセリフだったのに・・・なにゆえに真子,そんな言葉に左右されるんだ!

まともに受けとってしまった彼女を,つい発言した自分の責任も忘れて恨んでしまう。軽はずみで投げそこなったボールなんか,実のところ戻ってこなくてよかったのだ。なんて皮肉なことなんだろう・・・こんなにズシリと重くなって自らに跳ね返ってくるとは!

「わたしも,あなた以外の人に,抱かれていいのかもしれないとおもったの。なってみないと分からないのなら一度なってみようって。それに,酔っていたから・・・とにかくわたしは,いまの苦しみから逃れたかった・・・」

「だからといって,そいつに抱かれてもいいのか!」

気も狂わんばかりに嫉妬しているこのオレは,さぞかし醜いことであろう。でも,どう見えようが,いっこうにかまやしない。もはや感情を封じ込めるなど,どうしたって不可能なこと。もし,その男がこの場にいたら,ひとおもいに刺し殺してやりたいくらい。

「ごめんなさい。でもわたし,あなたのことを,こんなに愛しているとは思わなかったから・・・」

 愛しているというのに,どうしてオトコに抱かれたりするのだ。嵩子なら,そんなことは起こりっこない・・・おこりえない?

オレは?・・・しかし,かくいうオレは,いったいどうなのだ? 嵩子を抱いているオレは,真子を非難できるのか? 現にさっきも,真子が許せなくて嵩子を抱いたではないか! 愛するがゆえに許せなくて・・・。

 嫉妬に狂っていた私であったが,その妬みの深さが真子の苦しみを浮き彫りにしたのは,まだしも救いだった・・・からくも理性が働いた。

愛するがゆえに許せないというのなら,オレがやっていることは何なのだ。真子にとって許しがたい行為をしている自分・・・オレは真子を非難できる人間ではない。もっとも許されないはずのオレが真子を非難してはならぬ。

「でも,そのオトコは勘弁できない」

すんでのところで彼女を責め立てるのは思いとどまったが,抑えきれないジェラシーの矛先はおのずと相手の男に向けられた。

「そいつに会って,きっちり決着をつけてやる」

「それはやめて! お願いだから。あなたと一緒にいるかぎり,もうあなた以外のオトコに抱かれたりはしないわ」

「そんなわけにはいかない! おまえにその気がなくても,そいつはどうだか分かったもんじゃない。 男なんて,口先では調子いいこと言ってもカラダはまるっきり違うんだ」

「あなたもそうなの?」

「おっ・・・おれは,むりやり女を抱いたりはしないさ」

「それならわたしを信じて。わたしにもオトコを見る目はあるわ」

 その男は断じて許せないが・・・引き下がるよりほかないのだろう。彼女の肉体もこころも,ぜんぶオレのものにしておきたかった。それに言い争うあいだに少々怖じ気づく。嵩子のことでは自分が責められる側であるのに気づいたのだ。

形勢が逆転すれば藪蛇ではないか。「しょうがない。大目にみてやるよ,マコに免じてな」

 




今回の一件は,真子にも私にも様々な変化をもたらした。

時間がたってツラツラおもんみるに,真子が浮気をした根源には私の裏切りがあるばかりで,彼女には根本の原因はなかった。自らの中に巻き起こった嵐のような妬みと怒りを検証すると,彼女のとった振舞いは正当なことにおもえる。私が真子だったら・・・即座に裏切りオトコとは別れることだろう。

好きであろうと,私は不義をはたらく女性と一緒にいるつもりはない。そうなのだ。これまでの私だったら,浮気をしたオンナと付きあうなんて絶対にありえないこと・・・たとえオノレが浮気をしたとしても。

しかるに,ありえないはずのことが今,ここに現実としてあった。

私は・・・だれも愛せない。そうした自己に納得もしていたし,だから誰も愛さないと思っていた。愛せないから嵩子のことも内心奥深くではそれでいいと思っていた。愛さないからジェラシーとは無縁だとも思っていた。

ところが,実際はまるで違ったのだ。怒濤のごとく,嫉妬と憤怒が凄まじい勢いでココロに逆巻いたのである。そのことに自身がいちばんオドロき,傷つき,どうしてなのか見極めないわけにはいかない。

源流に向かって遡っていくと,真子をだれにも渡したくない際限なき欲望に行き当たって,もういちどオドロいた。

真子を・・・これほどまでに愛しているとは,イマのイマまで私はついぞ思ったことがなかった。 そう・・・まさしく命を懸けて愛しているとは!

だのに,このまま裏切りをつづけていれば,当然ながら真子は私のもとを去るに決まっている。なによりも真子は嵩子と正反対であった。だれかひとすじに恋をするとは思えない。それは真子と付きあいはじめたときからの私の不安でもあった。

 欲せずにはいられない女性が遠ざかっていく危惧と,これまで掌中にあった珠玉を失ってしまう口惜しさが入り交じって,真の原因はオノレにあるにもかかわらず,わたしは嫉妬をはらんだ猜疑心に支配されていく。

出版社の行事や時間外業務のため真子がマンションにいないと知るたびに,それを口実にあの男と逢っているのではないか,と疑いを抱いては神経を苛立たせた。また穏やかでない胸中はしばしば嫌味な言動や不愉快な態度となってあらわれた。

 

 5月のある夜のこと。

帰宅したとき,ヘッドライトがマンション前の道路を照らしだした。ちょうど真子が,しゃれたコンパクトカーの横に立っていて,車のなかの見知らぬ人影と喋っているみたい。

だれ?・・・アタマに血がのぼる。そのとたん人目を避けるように不審車は前方へ走り去ってしまった。私であるとは気づかないのか,彼女は見向きもしないでマンションの入口へ向かっていった。

 はらわたが煮えくりかえる。玄関ドアの前に立ったとき頭のなかは疑心暗鬼でいっぱい,リビングに入るやいなや見透かされないよう,つとめて平静をよそおい彼女に問いかけた。

「会社のヒトにでも送ってもらったのか?」 疑念はイマにもオモテに出てきそうだった。

「えっ・・・そうよ。遅くなったから」

事実に反しない返答であっても,無関係を強いるような素振りと平生の冷淡さが猜疑を後押しする。遠まわしに訊くつもりもなくなった。

「アイツにかっ」

真子の顔つきが変わった。

「ちがうわ! かってに決めつけないで」 さては虚偽なのか?

「いそいで車は去っていったんだから,ホントのところは分からないよな」

「なんで・・・なんでそんな言い方するのぉ! 残業で遅れたから,同僚の人に送ってもらっただけなのに・・・」

 運転していたのは男だという確信,というか思い込みが私にはあった。問題は,あのオトコかどうか。考えてもわからないぶん疑惑は深まる。

「アイツと,わかれもしないでコソコソ逢っているのか?」

そのような私に愛想をつかしたのだろう。「もういいかげん,ヤメて!」って叫び,いつもの冷ややかな真子へもどっていった。

それからは互いに沈黙し,気まずい空気が立ちこめる。あとあとのことまでは考えていなかった。成り行きに逆らうこともできず,蔑ろにされる腹立たしさをどこにも持っていきようがなかった。

やがて私に言い聞かせるように彼女がささやいた。

「わたし,あなたと,もう一緒にやっていけないかもしれない」

 この文句には否でも敏感にならざるをえない・・・真子を失いかねないリスクを十二分に意識させてくれた。なにしろ私は,いまだ嵩子と逢瀬を重ねていたのだから。

・・・そうだった。忘れてはならないのであった。あの男と真子が逢っていたとしても,彼女にウンヌン言えるような立場ではなかった。

ひるがえって考えてみると,真子がホンキで別れるって言い出さないのはとっても幸運なこと・・・赤い糸はどんなに擦りきれていようとも繋がっているのだ。ヘタに彼女を刺激して大事な糸を断ち切らせてはならない。バランスを保っている天秤を不用意に傾けてはならない。

『真子を信用しよう・・・ウソであろうといいじゃないか。オレは,もっと卑劣なことをしているんだ』

 別れたくはなかった,どうあっても。そのためには疑うこころをコントロールしなければならぬ。

見つめ直してみる・・・事情があったにしても私のやっていることは容認されるものではない。ということは,多少の不貞には目をつぶり,真子にもそれを容認すればいいではないか。

そのように頭のなかで理性的に都合よく取引きすることで,いちおう嫉妬と疑念は抑えこめるとおもった。だが,納得できる取引きには限度があり,感情には限度というものがない・・・要するに,激情は容易に抑えこめる限度を超えうるのである。その限度を超えたとき,意に反して爆発してしまうことまでは考えが及ばなかった。

 

健康増進に関する地域イベントが,8月第二日曜日に出版社の共催で企画されていた。どのような名称であったか定かではないものの,その内容はいわゆる展示会といったものであった。

7月も後半になると,真子は連日その手伝いに追われ,私より遅く帰ってくる日もあった。イベントでは,どこかのブースで案内係?・・・うまく聞き取れなかったが,なにかサポート役をつとめるとのことだった。

はっきり言って興味などなかった。ただ気になることが一点,そのためだけに当日になって私は,彼女の働きぶりを眺めるとともにチェックしようと,昼食をとってからいくぶん気乗りしないまま産業展示館に出向いたのである。

 

展示館近くのパーキングには空いたスペースが見つからず,やむなく西部緑地公園内の相当遠いところに駐車した。そのうえ行けばわかるだろうとおもっていた産業展示館・・・1号館でも2号館でも3号館でも,らしきイベントが開催されていなくてビックリ!

どうなっているのかワケがわからず,狐につままれたような気分で各館の入口付近を行ったり来たり・・・しかたなく3号館の受付けの人にイベントに関して問い合わせてみたが,さあ,わかりませんとのこと。場所を確かめるべきだった,と引き上げようとしたところへ,新しくできた4号館ではないかと奥の方から答える声がした。

新築の展示館はそこからは見えなかった。かなり離れたところに建てられていたので,知っていなければ気づくことも難しい状況であった。

 

4号館の会場はだだっ広く,入口あたりをウロウロしてみても,見通しがよくないこともあって真子らしい人影は見当たらない。案内図をたしかめると,ブースは周辺に横並び配置されているものと,内部に背中合わせで縦並び配置されているものが数列あって,かつ部門別に集められているようだった。

これじゃ,ふつうに順序よく回ったほうが無難か・・・彼女から詳しい情報など得ておらず,効率よく捜しだすのをあきらめた。

 周辺ブースを一通り,縦ブースものぞきながら見てまわった。各担当者に声をかけられても目をそらせて無視,オレの目的は真子をそれとなく見届けることのみ。少なくとも周りのブースに彼女はいなかった・・・ってことは,中のブースにいるのか? 

立ち止まって一息つく・・・しかし,こうまで努力する必要があるのだろうか? そうまでして確かめる価値なんかないのではないか? もう帰ってしまおうか・・・などと迷いながら,なんとなく遠くのほうに目をくばる。

と,ひとりの男が瞳にうつった。

見覚えがあるような,ないような・・・べつに気になったわけではない。けれども不意に,電撃に見舞われたときの感覚が呼び覚まされて身体中を駆け巡ったのだ。同時によみがえる,忘れ去ることを禁じられた,あのトラウマともいえるシーン。

オトコの視界から消えるべく速攻で移動し,忌まわしい記憶を手繰りよせ,容姿を微に入り細にわたって観察・・・やはりあの男に相違ない。

年齢は,真子より年上で30歳くらい・・・黒縁の眼鏡をかけた顔立ちはどちらかといえばイケメン風,若干のいかり肩に厚めの胸板,メタボ気味の腹にスラリとした脚が伸びている。

オトコを検分する機会に恵まれた私は,イベントにやって来た甲斐があったと独りホクソ笑んでいた・・・このときまでは。ところが悦びもつかの間,オトコの行動を注視していると,どうも嫌な予感がする・・・ナニかをじっと見つめているのだ。

・・・こわごわ目線をずらしていくと不安は的中した。目にとまったのは,だれあろう,真子! そして来場者に説明をしているらしい彼女が,軽く会釈をしてから笑顔を向けたその先は・・・むろん私ではない。

つぎの刹那,オトコと真子の視線が絡み合い,ふたりは人目も憚らず想いを交わし合ったのだ!

それを,ただただ茫然とながめているしかなかったとは!・・・なんという因果なことなのか。

 もしかしたら,とは思っていた。そうではあるが,現実に出くわしてみると許容量をかるくオーバー・・・とてつもない重石となって私のココロを押し潰してしまった。かろうじて虚栄心とプライドで持ちこたえて,気がつくと彼女は持ち場に戻ろうとしている。

ひしゃげたココロに嫉妬と憤怒を満たして,私は脇目も振らず,逃げ出すように会場をあとにしたのだった。

 

 その晩,ぐったりと疲れきって真子は帰ってくる。そんな状況を目にしても彼女を思いやる気持ちなど湧いてくるはずもない。

真子を見るなり,煮えたぎる怒りにまかせて出しぬけに毒づいた。

「おまえは,あの男と付きあっているのか!」

 さほど彼女は驚いた様子でもない。いつか私が爆発することを見抜いていたかのようであった。

「いったい,なんのハナシ?」

「あの男と付きあっているのかって訊いてるんだ!」

「あのオトコって?」

かっとなって『おまえと寝たヤツだよ!』と叫びそうになったが,冷めたままの真子に見限られるような気がして踏みとどまった。

「ホテルへ行ったヤツだよ!」

「・・・付きあってなんかないわ」

 認めるような言葉が返ってきたほうが気持ちは楽になれたかもしれない。潔くあきらめる道は有無をいわさずに閉ざされ,壁にぶち当たった憤懣はふたたび心の中に雪崩れ込んできた。

「おまえは以前,のがれるためにあいつに抱かれたと言っていたが・・・」

口にしようとしたら,日中の疎ましい光景がいやでも思い浮かんできて,憎しみすらも覚えつつ言い捨てる。

「きょうの,あいつを見る目は,そうじゃなかったぜっ!」

「あなたは会場に来ていたの?」 やっと彼女は真剣になった。

「行ったらダメなのか」

「そんなこと言ってないでしょ。あなたが来るとは思っていなかったから」

「行ったら都合の悪いことでもあるのか」

「なにもないわ。もうやめて!」

「おまえが,本当のことを言うまでは,やめるわけにはいかない」

「あなたはナニが言いたいの?」

「おまえはまた,あいつと寝たのか!」

と,間髪をいれず無意識のうちに叫んでいたのだ! 『なにっ?』・・・唐突に口をついて出てきた,自分でも信じがたい本音に唖然とする。

真子は・・・ウンザリした表情をして,小声でつぶやき返した。

「もう一緒にいたくない」

 彼女の発した言の葉は,私の感情の分厚い層を穿って,閉じ込められた理性の芯にまで達した。

どうかしている。これじゃ真子に嫌われて当然・・・自分に嫌気がさして家を飛び出さずにはいられない。

 

『かくも卑怯な自分ではありたくない』

自らを律することもできず,相手を非難するばかりの己れが情けない。おまけに驚くほどの嫉妬深さが堪忍ならぬ。

『どうしてだ? どうしたら,こうなってしまうのだ?』

 足にまかせて,ひたすら歩きつづけた,責めて責めて責めつけるために。

さりながら・・・歩いても歩いてもどこまで歩いても自分を責め足りない。一歩ごとに己れを愧じても,いつまでたっても愧じ足りないのだ。

真子を非難する資格は・・・オレにはない。

自分のことは棚にあげ,彼女を責めることこそ非難されるべきである。だいたい元はといえば,オレ自身がいけないのであるから。

『オレには・・・真子を愛する資格はない』

 そうだ,愛を捨てよう。

愛してやまないけど愛を捨てる。愛しているからこそ愛を捨てる。いや,理屈なんぞどうだっていい。

愛なき愛・・・愛を捨てた愛・・・愛ではない愛。どう表現するかの問題でもない。見失っていた自分にようやくにして出会えたような気がした。

『オレは・・・自己以外のなにものも持たないはずであった』

 なにも要らないし,なにも求めたくはない。なにもかも捨て去ってしまい,いかなるものも所有しない。それが・・・私であった。

愛も・・・例外ではない。

だれに対しても私は,ナニひとつ望まないで生きるつもりだった。真子に出逢ってからも自分は変わらないと思っていた。それが,しらずしらずのうちに恋の炎が燃え盛ってしまった。

真子を愛し・・・彼女の愛を欲したのだ。

しかしながら,なんにも持てない人間が一人前にだれかを愛するなんて,まちがっても許容されるものではない。

愛とは,所有の最たるもの・・・なにも持たずに生きようとする人間には,無用というよりも禁断の果実であった。

私は・・・嵩子と一緒にいるときには,生来のナニも持たない人間であろうとしていた。そのくせ真子と共にあるときには,愛する女性をなにがなんでも失いたくはなくて,真っ向から自己の本質に逆らって生きていたのだ。どこかに相いれないものを感じていたが,それがいったいナニであるのか・・・分かっているようで把握しきれないところがあった。

ここに至って,心底,オノレの道をおもいしる。

『これからは・・・愛なき愛に生きていこう』

これまで私は,なんという思い違いをしてきたのであろうか。そして,なんという過ちを!

 これからは求めない。真子を愛しても,彼女に愛を求めたりしない。じっさい彼女を愛する資格もないが,もともと愛なき愛しかないのだ,オレには。

 立ち止まり,天地と対峙する。

『もう金輪際! なにものも求めたりはしない』

 

まわりを見やるだけの平静さを取りもどし家路についた。いまなら真実を受けいれられそうな気がする。何はともあれ,真子に詫びを入れるだけでなく,己れの過ちをも正さねばならぬ。

 家にもどって真子と言葉を交わそうとするが,彼女は距離をおいて私と向き合おうとはしなかった。それでも宣言しなければならない。

「マコ・・・おれは,おまえを裏切った。それなのに一緒にいたいなんて,あまりにも虫がよすぎた。もう,おまえを束縛しないから許してくれ」

ずっと彼女は部屋の壁を見ている。

「こんなことになって,おれを信用できなくなっただろうけど,また信用されるように頑張ってみるつもりだ」

相変わらず彼女は貝のように押し黙ったまま。

「それと,オレはいまも,おまえを心から愛しているとわかったよ。でもオレは,おまえに見捨てられてもおかしくない状況だ。だから・・・これから先のことはおまえが決めてほしい」

 やっと真子が独り言のように返事をしてくれる。

「あなたを愛する,こころの土台が崩れてきてるけど,あなたをキライになったわけではないわ」

 もはや私は,それ以上なにも望んではいなかった。

 




 10月になった。あれから2か月,いろんなことが呑みこめてきた。

 何にもまして胸にコタえたのは・・・一人では見出だせないということ。孤独な人間であっても一人ではナンにも会得できない。孤独というもの自体が一人では為しえない。

嵩子と真子がいなければ,さらにあの男が絡まなければ,私は真の孤独を手に入れることはできなかったことだろう。不思議なエンではないか,自分ではどうすることもできない出会いと出来事・・・そうありたいと願っても天の配剤がなければ叶わないのだから,あいつにも感謝しなければならない。

 言うなれば・・・ジェラシーに狂わなければ気づかなかったであろう。私はもう十分に孤独であると思っていた。なにも持たずに生きていると信じこんでいた。まことミゴトなまでの見誤り・・・嫉妬してはじめて失うまいと一番大切なものを死守している自分を見ることができたとは!

人間は,マチガイをおかさなければ知ることができない。それも危機的状況に陥らないかぎり正真正銘の自己に出会うことはない。であるから・・・苦境に立ったときの惨めな自分を知らないかぎり本物にはなれないのだ。

 それにしても,嵩子と真子に与えてしまった苦悩の大きさを思うとき,心臓を鷲摑みにされるような痛みをおぼえる。ある意味しかたなかったにせよ,ふたりは私の孤独に巻き込まれた犠牲者ではなかったか。いわば私には宿命であったが,彼女たちにとっては私との出会いはむしろ悪夢だったのではないか。

だんだん自責の念を抱いて私はふたりと接するようになる。

 

 紅葉も見頃を迎えつつある・・・10月下旬。

私が若かりしとき,初恋の女性に想いをこめて声をかけた忘れじの日に,朝ちゃんが独立して店をオープンした。

当日の夜,開店祝いに私も駈けつける。

「ママ,お客さんで~す!」

店に入ると女の子が奥に向かって声をあげた。小さな厨房から,朝ちゃんならぬママが出てくる。

「いらっしゃい,青ちゃん」

「おめでとう・・・アサちゃんも,きょうからママってことか」

「ありがと。まだピンとこないけどね・・・そこの空いてる席にかけて」

 一つ残っていたカウンター席にすわる。テーブル席では団体客が早くも大声を出して騒いでいた。

 朝ちゃんは忙しくて私の相手どころではなかった。店にはママのほかに若い女の子が二人いて,どちらの子も水商売は初めてのようだった。それで私によぶんな話しかけをしてこない。おかげで久々にゆっくりと黙考を楽しめた。

 

 これまでのことを省みる。

愛から派生する一方的な感情は,心を否応なく過敏にさせて,錯誤を生みだし真実を遠ざける。だからこそ自分を見失い相手を非難してしまう。

真子が,どのようにあの男と接し,どのような関係でいるのか?・・・私には知りようがない。

過剰な感情は,秘められた部分に虚構を作りだして二人の怪しい関係を推測させるが,本当のところは分からない。彼女の私への怒りが両者を接近させる大きな要因だとしても,実際の結びつきは分からない。あいつを受け入れた彼女が,かくれて逢瀬を重ねているかどうか,それは分かりようがない。

明らかなのは,私の不義に接して真子は悩み苦しんでいること。彼女が生きるためには苦悩から解放されねばならないこと。そこへ真子を愛するという男があらわれたこと。案外に把握している事実は限られていて,ほとんど微妙なところは掴みようがない。

しかし大事なことは,分からないまま相手を愛せるかどうか・・・それが愛の運命を決める。

おそらく求めるという愛の先には,与えてやまない愛があるはず・・・私には永久といっていいほどに無縁の,信頼に満ちあふれた愛が,きっと。

わたしは私なりに真子を愛することができればそれでいい・・・彼女が応えてくれなくても構わない。これからは冷淡で非情な彼女しか要らないし,また望みたくないとまでおもう。

 

 そのうちテーブル席を一回りしたらしく朝ちゃんが戻ってきた。

「最近は,どう? 青ちゃん」

「どうもしないさ」

「そういえば,結婚するんじゃなかった? あのスタイルいい子と」

「そのハナシはなくなった・・・」

「じゃ,タカちゃんのことがバレたんだ」

 結果は合っているけど仔細がいろいろとあるんだ。そう思ったが,明かす必要はないし,説明するのはもっと面倒である。

「そんなとこだ」

「やっぱり悪いことはできないもんよねぇ,青ちゃん」

すでに婚姻への道は自然消滅したようなもの。去年のうちに計画を立て,今ごろには式を挙げようと考えていたけれど・・・とどのつまりは絵に描いた餅になってしまった。真子には,とっくにその意志はなくなったであろうし,私にしたって代わりに生涯一人で生きる信念と覚悟ができたのである。

「あの子はナンていう名前だっけ?」

「マコ」

「そうそう,けっきょくマコちゃんと別れたの?」

「そうではないけど,このさき・・・どうなるか分からない」

「じゃあ,タカちゃんとはどうしてるの?」

「そのまま・・・」

「タカちゃんと結婚すれば?」

「・・・そんなつもりはないよ」

「タカちゃんは,願ってるとおもうけどな・・・」

「おれはもう・・・だれとも結婚したくないんだ」

真子以外の女性と結婚しようとはおもわない。 ナゼなんだろう?

結婚しないのは,自分の資質に適した生き方をしたいから・・・だが,それは表向きのこと。だれにも語らない別の理由は,真子だけを愛している証しを示したいから・・・それが罪に対する償いであり,彼女に対する礼儀であり,なによりもオレのプライドなのだ。

「でも,タカちゃんが可哀そう」

「ママおねがいしま~す!」 奥のテーブル席から女の子が叫んだ。

「青ちゃん,またあとで続きをするわよ」

返答に困っていると,いいタイミングでママが呼ばれた。今夜なら思考の回りがいいのでママがいなくても平気だろう。

 

グラスを傾けながら考えにふける・・・この孤独はどうなんだろう。

 孤独は集団の中にしかない。一人でいては孤独かどうかも分からない。集団の中にあって孤独な生き方を選択することで,孤独が分かると同時にそれを示せるのだ。孤独と交流を避けることは根本的に相違する・・・一見類似していても生きる姿勢は対極的とさえいえる。

孤独はつねに共生の中にある。つまり,愛といっしょというわけだ。

 

「青ちゃん,なに考えてるの?」 おもったよりママが早く戻ってくる。

「いろいろ」

「ところで,タカちゃんは元気?」

「あぁ,とくに変わりはないよ」

 このところ頻繁には逢っていないが,嵩子は以前よりも落ち着いている。例のわけの分からない発作も今年になってからは目にしていない。真子に明かしたことが良い方向に作用しているみたいだった。

密閉された空間では酸素不足におちいり人間は生きていけないが,ほんの小さな風穴を開けるのみで窮地を脱することができる・・・それと似たような効果があったのではないか。

「ねぇ,青ちゃん。どうしてタカちゃんと結婚しないの?」

「むずかしいこと訊くなよ」

「タカちゃんほど,青ちゃんに尽くしてる子はいないとおもうな」

「そうだな」

 真子に出逢わなければ,あるいは嵩子と結婚していたやもしれぬ。そうかもしれないが,いまとなっては真子と別れたとしても,だれとも結婚はありえないハナシである。

「どうして? 青ちゃん」

「おれには,結婚は合わないと分かったから」

「マコちゃんとならいいわけ?」

「そうじゃなくて,たしかにマコと結婚しようとおもったけど,準備をするうちにオレには無理だと悟ったんだよ」

「どうしてムリなの?」

「言ってるだろ,おれの性格に合わないから」

「ふ~ん,結婚はしてみないとわからないとおもうけど。いい意味でも,わるい意味でも」

 朝ちゃんは10歳年下であるが,いわゆるバツ2だ・・・どことなく説得力がある。

「ママ~,お呼びで~す」

またまた女の子の呼び声に「ハーイ」とママが答えた。

「青ちゃん,ちょっとゴメンね」

「あぁ,いいよ」

 

 どれだけ朝ちゃんに説かれようが,オレには結婚はない。この2ヶ月の間にジワリジワリとではあるが,愛なき愛は心身に浸透・・・そこに責任とプライドが重なり,結婚は考えられないのだ。

ひとりで・・・こっそり祝杯をあげよう。

『オレの愛なき愛に,カンパイ!』

 愛なき愛こそ,私のめざす愛のかたち。 孤独と無限へいたる道。

 

 そこへ戻ってきた朝ちゃんも加わる。

「まあ,青ちゃんの人生だから,わたしがどうこう言うことじゃないわよね。きょうは来てくれてうれしいわ。じゃ・・・カンパイ!」

「そうさ,アサちゃんの新しい店に,乾杯!」





  12月,嵩子が壊れたあの夜から・・・まる一年。

真子と私は,たがいに干渉しないようにして一緒に暮らしている。取り決めを交わしたシェアハウスの同居人みたいな関係だ。

私にもヒト頃のような熱い恋心というものはない。しかし,冷めた心であっても芯には真子への想いがあったから彼女と過ごせることに満足していた。それに自己に目覚めてからは素直に気持ちを表現できるようになった。真子も受け容れてくれるが,彼女が自分でも言っているように,私への心の土台が崩れてしまって元のような関係には戻れない。

嵩子とはやはり,世間に通用するような形で別れることはできなかった。でも,それが所以なのではない。真子に求めることを一切やめたのは,オノレの本質を知ったからである。

どんな形であろうと私は真子と生活することができたが,彼女にはもう私と一緒に生きる根拠は見当たらない。いまは生活のために一度は好きになった私と,おなじ屋根の下で暮らすのがもっとも都合がいいのだとおもう。それに東京へ簡単に出戻るわけにはいかない事情もあるのだろう。

いずれ真子は私から離れていくにちがいない。その時がくるまで可能なかぎりオレなりの愛で彼女を包みたい。

 とはいっても,ある女性をこころの底から愛してるといいながら,裏では別の女性の愛を受けいれるなど許されるはずもないし,だれであっても通じないこと・・・真子への愛はオノレひとりで納得するほかない。それは自業自得であり,どれほど悲しくても耐えなければならぬ。

 

 ・・・にしても,1224日なんて日は,いっそのこと,なくなってしまえばいいのだ。

いいや・・・ダメだ,ダメだ。そう思ってしまう自分を叱咤する。この現実にはナニも求めてはいけない。

 勤務が終わってから嵩子のアパートに立ち寄った。まえもって30分後に帰ることを告げておく。テーブルの上には・・・何年か前まで使っていた幅のある大きな円柱形のロウソクが赤色と青色と一つずつ用意されてあった。

ロウソクに火をともした彼女は,3ヶ月前にオープンした新しいケーキ屋さんに予約しておいたの,と言ってシフォンケーキをテーブルに・・・蛍光灯を消すと,笑みを浮かべた嵩子が炎といっしょにあやしく揺れていた。

「きょうは夢みてるみたい」 彼女は歓びの色を隠さない。

ふたりで「メリークリスマス!」と唱える。淹れたてのコーヒーを味わい,シフォンケーキは半分おいしく平らげた。

 家では真子が待っていた。帰るときに私が手にしていたのは,レーザーディスク。なるべく面白いものがいいと考えて,3日前に『ビバリーヒルズ・コップ2』を購入しておいたのだ。

「こんやはこれを見ようか」って自慢げにかかげると,よそいきの笑顔で真子はうなずき,手際よくステーキを焼いてくれる。

「メリークリスマス!」 白ワインで乾杯した。

デザートに手作りのチーズケーキを食べ,角瓶の水割りをたしなみ,映画をみて楽しんだ。かつてのように胸躍る心持ちにはなれないが,イヴのフィニッシュには・・・ベッドインして欲望を満たしたい思惑があった。

そんな煩悩を見透かした真子は,義務でも果たすかのように私に抱かれる。身も心も乾いた彼女を抱きたくはない・・・そう思っても欲情に負けてしまう私は,真子を悦ばせることもできないまま,惨めに独りで果てなければならなかった。

そのうえ私は,どこまでも見切ることができないでいた。受け容れてくれる事実にいつまでも一縷の望みをつないでいたのだ。

性の営みをするとき,彼女が見せまいとすればするほど,顔には隠しきれない拒否反応があらわれる。

さすがにその夜は,微妙に歯を食いしばる彼女の顔がふかく胸に突き刺さった。さながら,もうひとりのアシュラを見ているような・・・二度とふたたび真子を抱いたりしない,と心ひそかに誓ったのだった。

 

 真子が金沢にきて三度目の正月がおとずれる。

この年,雪化粧した元旦は冷え込みが一段と厳しかった。さいわい日中には雪は降らなかったが,気温が上がらず寒い一日となった。

午前中のうちに病院へ行って重症患者を診てくる。できれば午後から初もうでに出かけたいと考えていた。というのも,彼女と行ける最初で最後の初詣りになるような気がしてならない・・・それゆえ真冬日になっても,苦手な人混みをガマンし,何としてでも二人で行きたいという気持ちが強かった。

ただ,そのような思いを真子が受けとめてくれるかどうか?

「きょうは午後,尾山神社へ初もうでに行ってこないか?」

病院から帰ってくるとさっそく彼女を誘ってみた。

「こんな寒い日に?」

 真子は出会ったころから寒さによわい。こう寒くてはとても乗り気になれない,と訴えるように彼女は渋った。が,私には特別という思いがあって,そう簡単には引き下がれない。

「ぜひ元日に,マコと初詣りがしたいな」

「わたしは北陸の冬が大嫌い。とくにきょうは寒そうだから,あなた一人で行ってきて」

 そんなふうに断られると淋しいだけじゃなくて,不満の芽が出てくる。

「おれは・・・マコと初もうでへ行って,できたら記念になるものを作りたいんだよ。ちょっとは分かってくれてもいいんじゃないかな」

 不満げで批判的な言いようが,おそらく彼女のこころに亀裂を生じさせた。

「わたしとじゃなくて,むこうの人と行ってくれば!」

 不意に弱点をつかれて私は逆上した。傍らにあったテレビのリモコンを思いっきり投げつける・・・床に弾かれて壁にぶつかり,衝撃で本体が飛び散って部品のカケラが空を切った。

『しまった! おれはナニをしているんだろう』

落ちたリモコンを手に取ってみる・・・部品を合わせても本体左の下端が欠けていた。床には線状のへこみ傷・・・我れにかえった私は,真子に求めてしまった動かぬ証拠を確認して,やむにやまれず反省する。

『いかん,真子にもだれにも求めてはいけないのだった。そんな生き方をしようと決めたはずなのに・・・またしても過ってしまった』

愛なき愛・・・とっくに己れ自身と言い切れるまでに浸透した,と信じたのがバカだった。悔しいけれど,いま目にしているのがありのままの自分,この現実にあらわれるアリサマのみが自己なのだ。

まだまだこれから・・・捨てて,捨てて,捨て抜いて,自己の極致に達するべく努めなければならぬ。

つまるところ,心に決めたことであっても,失敗を繰りかえし四苦八苦しながら身につけていくしかないのである。

 

 

 

3月,春うららの送別会シーズンとなり,密会の目撃・・・私はそのように感じているのだが,あれから一年がまたたく間に過ぎ去ってしまった。

いまでは冷静に受けとめ,よもや限度を超えてあの男を憎むことはないと思うものの,自己とはどういうものかを知ってしまうと,正直なところ内に眠る本心に自信がもてない。

 この年度末の時期に,例年どおり幕張メッセで循環器の学会が行なわれた。そろそろ前を向いて話し合わねば・・・と考えていたので,参加にさいして真子を誘って東京へ出向くことにした。

一日目,真子は実家に帰って一泊する予定を組んでいた。わたしは想い出の詰まったS病院の周辺へ行き,六本木交差点ちかくのホテルに飛び込みで宿泊した。以前から一度は泊まってみたいと思っていたが,料金が高いわりに部屋は狭苦しくて大いにがっかりする・・・ちなみに現在では東京ミッドタウンがあるので状況は変わっていることだろう。

 夜はアマンドの裏通りにある日本酒の店で食事を兼ねて一杯やった。年配のマスターと粋な女将さんとで繁盛していたその店も,残念ながら数年後には無くなってしまった。ネオン街の店の移り変わりはじつに激しいものがある。

 二日目は幕張メッセで学術集会に参加したあと,日が傾くまえに赤坂見附へ向かった。真子と落ちあう約束をしていたのだ。

たそがれどきに,ベルビー赤坂からホテルの並び立つ眺めを懐かしんでいると,彼女に声をかけられる。

「おまたせ。ずいぶん待った?」

「ん~,5分くらいかな」

夕刻になって冷たい風が強く吹きこんでくる。「3月はまだ寒いな。早くどこかに入ろうか」

 どこでもいいから,すぐに入れてゆったりできるところがよかった。目の前のホテルへ移動し,3階ロビーにつづくレストランへ駈けこんだ。

 料理を注文してから問いかける。

「家のほうは,どうだった?」

どのあたりまで答えたらいいものか,彼女は戸惑っているふうに見えた。

「変わりはなかったけど,結婚しないことと・・・」すこし間をおいて「9月一杯で仕事を辞めて,東京に帰ってくるって言ってきたわ」

「そうか・・・」 言葉に詰まる。

ついに真子は決心したのか!

かならずや私のもとを飛び立っていくものと覚悟を決めていた。そうであっても虚しく寂しい気持ちがこころのすき間をいつまでもぐるぐるとまわりつづける。ふと目をうつすと,彼女は窓のむこうの景色を・・・車の行き来する交差点を見ていた。真子の見つめる先に吸い寄せられる。

次々に停まっては走り去っていくテールランプと向かってくるヘッドライトの波・・・音のない風変わりな海をながめるようであった。

返えす赤と寄せる白のコントラストのある流れを見ていると,僅かずつでも心が洗われる。

知らないうちに求めている自分・・・そう,求めないことだった。

「マコが決めたのなら,それでいいよ」


 懐かしのラブホテルに泊まろうか,と何げなく持ちかける。彼女は見透かしていたのだろう,わかったわと言って承諾してくれた。

 駅のコインロッカーから荷物を取りだして赤坂までぶらつく。途中から真子の手を握りしめた。寒さに耐えられなくて彼女が拒む気になれないだけであろうと私はうれしかった。

 背を向けあう二つのラブホテル。たぶん経営は同一会社・・・雰囲気の異なるホテルをわざと並べ,飽きさせない趣向なのだろう。ただメインに利用したのはオレの好みでケバケバしくないほうだった。今回も同様の選択をした。

 シャワーを浴びて,直前にコンビニで買った缶ビールで乾杯する。

「きょうはありがとう」って言うと,真子は「なにか,出逢ったころにもどった気分」と返してくれた。

 このような形で終わっていくなんて,あの頃には夢にも思わなかった。しかし自己を知るための道だったと諦めなければならない。でも・・・真子はどうなのだろう?

「マコは,おれと出逢ってよかったとおもうか?」

「わからないわ。あなたのことはイマでもキライではないけど,好きなのかどうか,わからなくなってしまったから・・・」

 なんと正直な答えだろう・・・いまでもオレは真子が大好きだというのに,やるせなくなってくる。

「あなたは,わたしと出逢ってよかったの?」

 見えをはるつもりはない。素直に返答すればいいのだ。

「あぁ,マコと出逢えて・・・おれは最高に幸せだよ」

 できることなら,おまえとずっと暮らしていたい・・・そう心の中でつぶやいた。

「どうして?」

「好きに,ナゼってぇのはナイのさ」

「いまのわたしでも?」

「あぁ,いつでもマコが好きだよ」

「わたしは・・・わたしだけを想ってくれる人がいい」

 そりゃそうだろ。当たり前のことだ。オレだっていっしょ・・・なのでオレには,真子を愛する資格はないと思っている。もう真子のこころのままに生きればいいさ。ところで,あいつとはどうなっているのだ?

「マコ,ちょっと訊いてもいいか?」

「ナニ?・・・あらためて訊かれると怖いわ」

「あのオトコのことさ。マコはあいつが好きなのか?」

「きらいじゃないわ・・・でも,愛しているわけじゃない」

「感謝している?」

「えぇ,救われた気がするわ。あのときはホントに苦しくて,わけもなく涙があふれてきて,どうしようもなかったから・・・だけど,とくべつな感情はないわ」

「マコはそうかもしれないけど,あいつはおまえのことが大好きだろ」

「そうみたいねぇ。だから悪い感じには思えないのかしら・・・」

「付きあっていくのか」

「それはないとおもうけど・・・」

これ以上たずねても仕方がない。なにをしようと彼女の自由だ。

「わたしも,訊いていい?」

「いいよ」って返事してから胸は不安でいっぱいになる。

「わたしと一緒に住んでいても,その人と寝ていたの?」

 なんて質問だ。ここで嘘はつきたくないが・・・? まてよ,つく必要もないか,別れてしまうのだから。

「ときどき・・・」

「いまも?」

「・・・たまに」

 唖然とする真子・・・もう決定的に嫌われたことだろう。

「わたしね,あなたとセックスしていても,見知らぬ人と絡んでるあなたのスガタが浮かんできて,気持ちがどんどん引いていたわ」

「あぁ,分かってる」

 オレにしたって,真子や嵩子の幻影に邪魔されることが度々あった。ただ反対に刺激をうけるときもあったけれど。

「マコは,あいつと寝ているのか?」

 本音が顔を出す。酔ってきているのだろう。

「一回きりよ。ヘンなこと訊かないで!」

 そうか。問うたことを後悔するが,関わらないと言いながら気になっている自分がいるのも事実である。どうにも自己というものはやっかいだ。

10月から,おれたちはどうなるんだろう」

「わからないわ」

 先のことは決めておいても分からない。だいたい,こんな状況をいままで予想はおろか想像すらできなかったではないか。自分自身さえも分かっているようで分かっていない。それでも人間は,予期せぬ現実をつねに肯定し,分からぬ自分をつねに信じて生きていくしかないのである。

タオの思想を,わたしは漠然と思い浮かべていた。

 

道が語りうるものであれば,それは不変の道ではない。

(老子 小川環樹訳注)

 



 春は新年度に入り慌ただしく,夏も出版社のイベントがあって真子は忙しい日々を過ごした。9月は送別会と出立の準備に追われて・・・秋もこれから深まるという10月の第一日曜日,彼女は金沢を去っていった。

 私は37歳のなかば,真子は25歳もおわりに近い年齢でヒトツの節目をむかえた。さしずめ一旦の別れは不可避だったにしろ,本当の別離は今後に控えているような・・・きっと真子も同じ感覚だったのではないだろうか。




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